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2020年07月04日10:14

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仏教23〜死後の運命、霊験と神通力、現世利益

●死後の運命

 仏教では、死後の運命は、因縁果の法則により、自業自得によって決する。生前の業によって、自ずと死後のあり方が決まるので、本来、誰かが死者を裁くという考えはなかった。
 ヒンドゥー教は、ヤマという死者の裁判官を想定する。その影響で後代、仏教でも死者を裁く者が想定されるようになった。シナでは、ヤマを「閻魔(えんま)」と音訳した。そして、死後、生前の行いを調査し、来世で六道のどこに行くか、を決める裁判が行われるという思想が生まれた。この裁判に要する期間を、中有(ちゅうう)または中陰という。「中」は、次に再び生まれるまでの中間期を意味する。その期間の長さは、一念、7日間、49日間、不定等の説がある。
 死者を導く経典として、チベット語で書かれた『死者の書(バルド・トドゥル)』が知られる。バルドは「中間の状態」すなわち中有、トドゥルは「耳で聞いて解脱する」を意味する。8〜9世紀にインドの僧でチベット仏教の開祖であるパドマサムヴァが著わした経典だが、それ以前から口伝で伝えられていたらしい。
 この経典は、死に臨む人の耳元で、死の直前から死後49日間にわたって語り聞かせるものであり、死後の世界が一日毎に具体的に描かれ、そこで死者がどのようにすれば輪廻転生せず、解脱できるかを教える。49日とは、どんな死者もこの間には輪廻して生まれ変わってしまう期間とされる。チベット仏教では、解脱の最大のチャンスは死の直後だと考え、この経典を読んで死者に聞かせて解脱に導こうとした。しかし、経典が描く死者を襲い続ける恐怖や幻覚は凄まじく、それに打ち勝たなければ解脱できないことを強調する。いかに解脱が至難のことであるかを強く感じさせる経典である。
 わが国では、中有の期間は49日間とされた。この間、7人の裁判官が7日ごとに亡者を裁くとし、7日ごとに法事と呼ばれる儀式を行う慣習が、室町時代に出来上がった。百か日、一周忌、三回忌には、別の3人の裁判官が再審するといい、それに伴う法事も行われる。だが、こうした慣習の本来の意味はほとんど忘れられており、形式化している。

●霊験と神通力

 仏教では、奇跡を霊験と呼ぶ。霊験とは、祈願に対する仏の不思議な感応・利益(りやく)をいう。
 一般に奇跡とは、常識や理性でもっては判断できず、説明のできない出来事をいう。キリスト教で奇跡とされるものは、神が、通常の自然法則を無視して、あるいは通常の自然法則を乗り越えて起こした現象を意味する。イエスによる病者の瞬間的な治癒や死者の蘇生は、そういう現象として理解される。またイエスは聖霊による処女マリアの受胎で生まれたとされており、これも同様に理解される。キリスト教では、神はこうした奇跡を通じて、人類に神の存在を啓示している、と考えられてきた。また、キリスト教における奇跡は、神の力が加わったことの立証とされてきた。
 これに対し、仏教における奇跡は、超越的な神の力によって起こるのではなく、仏や菩薩など、悟りを得たり、修行を積んだ者が持つ特殊な能力によって起こる出来事とされる。その能力を、神通力という。無神教である仏教で神通という語はおかしな感じがするが、ここでの漢語の「神」は「霊」を意味する。それゆえ、神通力とは、霊的な能力、霊力をいう。
 神通力は、天眼通(てんげんつう)・天耳通(てんにつう)・他心通(たしんつう)・宿命通(しゅくみょうつう)・神足通(じんそくつう)で、五神通という。これに漏尽通(ろじんつう)を加えて、六神通ともいう。
 天眼通はすべてを見通す能力、天耳通はすべての音を聞き分ける能力、他心通は他人の心のなかをすべて知る能力、宿命通は前世の生存の状態を知る能力、神足通はあらゆる場所に自由に行くことのできる能力、漏尽通はすべての煩悩を滅しこの世に再び生れないことを悟る能力をいう。
 これらを、超心理学でいう超能力すなわち念力(PK)及び超感覚的知覚(ESP)と比べると、天眼通は遠隔視、他心通はテレパシー、神足通はテレポーテイションが、それぞれ極度に発達したもの、むしろ理想されたものと言える。宿命通と漏尽通は、仏教特有の教義に基づくものである。
 神通力は、悟りを得た時に自然に出てくる能力、自ずと備わる能力とされる。その能力は、これ見よがしに発揮すべきものではなく、具備していても、むしろ隠しておくべきものとされている。その能力の発揮が例外的に認められるのは、利他的に必要な場合に限られる。
 仏教は、神通力を認めるが、神通力を備えているかどうかを以って、悟りを得ているかどうかを判定する基準とはしていない。悟りすなわち真理の悟得の実証として、神通力の働きを評価することもしていない。だが、私見によれば、神通力は、究極の悟りの境地に達すれば、意識して発揮する人為的な能力ではなく、為さずして成り、無為にして通じるようになる。その境地に到達した最高至上の聖者を、現神人という。仏教の歴史には、現神人は出現していない。
 仏教の信徒は、欲望の充足のために、仏や菩薩の霊験を期待するのは、道を誤っていると教えられる。弱い人間は奇跡を求めるが、強い人間は奇跡を必要としないとし、奇跡を願わない強い人間を、信仰によってつくっていくのが仏教の考え方であるという。
 だが、このことは、仏教には、人々の実際の悩みを解決する力が不足し、救いの実証がないことを示している。仏や菩薩が実在し、それらが神通力を持ち、利他的にその能力を発揮し得るならば、人々の病気、事故、災難、死の恐怖と苦痛等が救われるだろう。だが、そうした出来事は、まれにしか起こっていない。いかに素直に熱心に信仰し、善行を積んでも実際には、ほとんど救われることのない信仰は、観念的な自己満足にすぎない。そこに、仏教の限界がある。

●現世利益

 仏教は、輪廻転生の世界からの解脱を目指すので、基本的には現世否定的である。現世はこの苦しみの世界から解脱するための修行や信仰の場であって、ここでの幸福や繁栄を求めるべき場所ではない。だが、現世において仏や菩薩から恵みを受けることは可能とし、その恵みを現世利益(りやく)という。
 現世利益は、大乗経典の『法華経』『金光明経』『薬師経』等で強く説かれている。祈祷、読経、念仏等を行なうことにより、息災、延命、治病等の利益が得られるとする。特に密教では、加持祈祷による現世利益が強調された。ここには、ヒンドゥー教の影響が大きい。
 仏教は、あくまで涅槃寂静を目指す宗教であるから、現世利益中心の信仰は「ご利益信仰」として批判されることが多い。また、厭離穢土・欣求浄土を説く浄土系諸宗派は、現世利益を求めることに否定的であり、浄土真宗では、信心が決定 (けつじょう) すれば、それによって現世利益は自ずから授かるものだと教える。だが、その実証は、ほとんど示されていない。
 現世利益に対し、来世に受ける利益を当益(とうやく)と呼ぶ。これと対にして、現世利益を現益(げんやく)ともいう。現世において安穏に暮らし、来世において善処に往くことは、理想的であり、現当二世の利益は人間の切実な願望である。試験によれば、現世において、真の幸福を得てこそ、来世においてより大きな幸福を得ることができるだろう。それは因縁果の法則に照らして考えれば、当然の理である。現世において不幸の極致でありながら、来世で急に幸福の絶頂へ飛躍することは、因果関係から見て、不可能といってよい。

 次回に続く。

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