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2020年06月12日10:23

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仏教13〜三界、浄土、須弥山

●世界観(続き)

・三界
 輪廻転生する世界は、欲界・色界・無色界の三界に分けられる。欲界は、色欲・食欲の二つの欲が強い者が住む領域である。上は天上道の一部(六欲天)から、下は八大地獄までにわたる。その中間に人間道がある。色界は、欲界の上に位置する。欲望を離れてはいるが、なお色すなわち物質的・肉体的なものから解放されていない。四禅天に分かれ、さらに十七天に分かれる。無色界は、一切の色の束縛から離脱し、五蘊のうち色を除いた受・想・行・識の四蘊で構成する領域をいう。
 私見を述べると、こうした重層的な世界構造は、空間的な領域から精神的な境地へと連続している。精神的な境地は人間道における修行者の状態を表しているにすぎず、それより上位の色界、無色界をよく想像し得ていない。

・浄土
 輪廻転生を繰り返す世界に対して、輪廻転生しない永遠の世界を、仏の国、仏国土という。仏国土を浄土ともいう。「煩悩や穢れのない清らかな場所」という意味である。浄土は、輪廻の輪の外に超え出たところに想定されている。
 大乗仏教は、釈迦以外に多くの仏を想定する。それらの仏は、それぞれ自分の仏国土、浄土を持っている。言い換えれば、仏国土すなわち浄土は仏の数だけあるとされる。
 浄土信仰では、阿弥陀仏の居所である浄土を、極楽浄土という。西方の十万億土を経た所にあり、一切の苦から自由になった安楽な世界と想定されている。十万億土とは、十万億の仏国土を意味する。これは、仏の数が十万億もあることを意味するから、釈迦の前に過去六仏、釈迦の後に未来一仏という考え方とは、まったく相いれない。
 また、輪廻の輪の外に出たときに涅槃寂静に達するという考え方に立つと、涅槃寂静の状態とそれを浄土とイメージすることには矛盾がある。浄土を天上道のどこかに想定し、それを仮に天上道の最高地点に位置するとしても、あくまで輪廻転生する世界の一部である。

・須弥山
 仏教には、須弥山を中心とした世界観がある。古代インドの神話における世界観が仏教に取り入れられたものである。須弥山は、サンスクリット語のSumeru、Meruの漢字への音訳語である。妙高山とも意訳される。世界の中心にある想像上の高山で、ヴェーダの宗教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教が共有している。
 その世界観では、虚空に風輪という巨大な円筒が浮かび、その上に水輪、金輪(地輪)が乗る。金輪の上に大海があり、その中央にそびえるのが聖なる山、須弥山である。高さは8万由旬(1由旬は40里)で、金・銀・瑠璃・玻璃の四宝からなる。その麓を、同心円状に七重の山が取り巻き、山と山との間に七つの海があり、いちばん外側の海を鉄囲山が囲む。この外海の四方に四大州が広がり、その南の州の閻浮提(えんぶだい)に人間が住むとする。中腹の四方には四天王、頂上には帝釈天の宮殿があり、三十三天を形成する。日月は山の中腹を回転するという。
 壮大な世界観だが、須弥山が人間の目には見えるものなら、空想上のものであることは明らかである。中腹に四天王が住むというのは、現実の空間ではなく天上道と考えられるが、その点はあいまいである。
 もし仏教の歴史において、真に悟りに達した者がいれば、宇宙空間から地球が球体であることを確認し、地球が太陽の周りを回転していることを理解し、須弥山を中心とした世界観の誤りを明らかにしただろう。だが、そうした指摘はされてこなかったようだから、仏教の歴史には、真に悟りに達したものは出ていないと言わざるを得ない。

 次回に続く。

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