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2019年04月20日08:46

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キリスト教189〜士族のプロテスタンティズム

●士族のプロテスタンティズム

 西洋諸国が進出したアジア、アフリカ、ラテン・アメリカでは、どの民族でも知識階層にあってキリスト教に入る者が現れた。基本的には日本でもそれが起こったわけだが、興味深いのは、なぜ武士や武士の子弟が、江戸時代から長く禁教とされたキリスト教、またそのうちのプロテスタントに多く改宗・帰依したのかという点である。
 私は、(1)陽明学の浸透、(2)平田神道の影響、(3)武士道の個人意識の三つを要因と考えている。

(1)陽明学の浸透
 シナの儒教は、ユーラシア大陸の遊牧民が抱いていた宇宙の主宰神としての天の信仰が発達したものである。天の信仰は、ユダヤ的な唯一神教ではない。主宰神以外に、多数の神格を認める。儒教は、日本ではほとんど非宗教化され、儒学と呼ばれる学問となった。天の信仰は合理化され、道理に基づく倫理道徳となった。また、科挙官僚の文人・士大夫ではなく、軍事と治政を担う武士の教養となった。幕府公認の朱子学は神道と融合し、神儒習合の神道の様々な宗派を生み出した。私は、こうした日本的儒教がキリスト教受容に関係したと考える。特に陽明学に注目する。
 王陽明の思想はキリスト教との類似性が指摘されている。明治初期の士族出身のプロテスタントは、自らへの陽明学の影響を語っている。この点は、重要なので項目をあらためて別途書く。

(2)平田神道の影響
 19世紀前半、国学による古学神道を体系づけて大成したのが、平田篤胤である。平田神道は古学神道がそのまま発展したものではなく、古学神道とキリスト教を習合したものだった。篤胤は、主宰神の観念と来世の思想を強調した。これはキリスト教の影響による。著書『本教外篇』の一部は、明末のシナにおけるキリスト教文献、耶蘇会士アレニや宣教師リッチ等の書を翻案したものである。
 篤胤は、主宰神としての天之御中主神を強調しながら、多くの神々の役割分担を認めている。それゆえ、平田神道は、キリスト教の影響を受けた多神教である。
 平田神道は尊王復古を主張し、国体の尊厳を称揚し、民族的自覚を喚起する教えだった。それゆえ、幕末・維新の志士に強い影響を与えた。こうした主宰神を強調する神道が志士の間に浸透していたことが、キリスト教の受容を可能にする一つの要因となったと考えられる。

(3)武士道の個人意識
 世界の諸社会で日本と西欧でのみ、封建制が発達した。封建制は家産制と違い、専制体制ではないので、財の分配が主として当事者間の社会的交換によって定まる。封建制の下、日本では武士道、西欧では騎士道が発達した。武士道は領主と武士が親子のような情で結び合い、騎士道は相互の意思の一致による契約関係であった。そこに違いがあるが、ともに個人を重視する気風が育った点では共通性がある。
 プロテスタントは、救霊予定説を強調する。これは、個人に厳しい倫理とその実行を求め、神と個人が直接対面する信仰である。士族がカトリックではなくプロテスタントに多く帰依したのは、プロテスタントにおける個人主義が、個の自立を重んじる武士道の個人意識に合致したためと考えられる。

 次回に続く。

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