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2019年02月02日09:29

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キリスト教155〜ピウス12世がユダヤ人迫害を黙認した原因

●ピウス12世がユダヤ人迫害を黙認した原因

 ピウス12世は、1939年3月から58年10月にかけて教皇を務めた。カトリック教徒の間では、戦争犠牲者・負傷者・困窮者の支援と慰問の活動を行ったことで尊敬を集めたとされる。しかし、同時に彼は「ヒトラーの教皇」とも呼ばれていた。ナチスによるユダヤ人迫害を黙認し、カトリック司祭たちがナチス非難の声を上げ、教皇として声明を上げるようにと要求されても、沈黙を続けた。その結果、ユダヤ人犠牲者の増大を許すことになった。
 もっとも、第2次大戦でイタリアが敗北しドイツ軍がローマを占領した際には、多くのユダヤ人がヴァチカンで匿われ、ヴァチカンの市民権を得ることができたという事実もある。ピウス12世は、その功績によって、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」賞を贈られれてる。
問題は、なぜピウス12世は、ナチスに協力し、ユダヤ人迫害に関して頑なに沈黙を守ったのかである。
 ドイツ・ユダヤ史の研究者・大澤武男は、著書『ローマ教皇とナチス』で、その原因を追究している。大澤が挙げている原因を整理すると、次のようになるだろう。

(1)宗教を否定する共産主義に対する防壁としてのナチス・ドイツへの期待
(2)キリスト教ヨーロッパ文明の根本にある反ユダヤ主義の影響
(3)ドイツ赴任中にドイツ文化・ドイツ社会に親しみ、個人的にドイツ人に好感を持っていたこと
(4)ナチス・ドイツの暴力がカトリック教会に向けられることへの恐怖
(5)軍事力・強制力がなく、権威しか持たないローマ教皇の立場の弱さの認識

 私は、これらのうち、(1)と(2)が重要だと考える。カトリック教会にとって、無神論的唯物論を説く共産主義は、第一の反対勢力であり、その共産主義と闘うナチス・ドイツに、誤った期待を過度に持ってしまったということである。そのため、、ナチスが行う他のキリスト教国への侵攻戦争やユダヤ人への迫害に目をつぶってしまった。ここで後者については、
 (2)の伝統的な反ユダヤ主義が現れたということだろう。ユダヤ教のラビであるナフム・ラコーバーは、ピウス12世に対し、「ただ『するな』それを言うだけでよかった。それだけで数十万、恐らく数百万のユダヤ人が死を免れただろう」と、その不作為の責任を追及する。また、ピウス12世の対応により、犠牲者が増えたと多くのユダヤ人は考えているといわれる。
 私見を述べると、大澤が挙げていない最大の原因は、カトリック教会がイエスの教えから大きく外れてしまっていたことだろう。この逸脱は、ナチスの台頭に直面した時に初めて起こったことではなく、本稿に書いてきたように、逸脱は遥か古代に始まり、歴史を通じて持続・拡大してきたことである。ピウス12世は、一方で隣人愛を繰り返し説きながら、ドイツや東欧のユダヤ人はその対象ではなく、自分の部下である聖職者がナチスによって強制収容所に送られても、ナチスを非難しなかった。そこには、イエスの隣人愛の教えを実践することよりも、ローマ・カトリックという巨大な組織を守ることを使命とする倒錯した心理がうかがわれる。
 カトリック教会では、1870年の第1ヴァチカン公会議で教皇の不可謬性が教義とされた。その教義によれば、ナチスと政教条約を結んだピウス11世も、ナチスのユダヤ人迫害に沈黙を続けたピウス12世も、ともに一切間違いはない、ということになる。
 だが、1998年、教皇ヨハネ・パウロ2世は、第2次世界大戦中のナチスによるユダヤ人虐殺をヴァチカンが黙認したことを罪と認めて、悔い改め追悼する公式文書を発表した。「我々は忘れない、ホロコーストへの反省」と題されたその文書には、ピウス12世を擁護した部分があり、イスラエルのユダヤ教指導者から反発の声が上がった。

●大戦後、ヴァチカンはナチス残党の海外逃亡を支援

 ナチスは、第2次世界大戦で敗北し、その指導者たちは、ニュルンベルク裁判で裁かれ、多くの者が処刑された。ユダヤ人への迫害は「人道に対する罪」とされ、「ホロコースト」という呼称が使われるようになった。
 だが、教皇庁は国際軍事裁判所で戦犯とされたナチス党員の逃亡を助け、アメリカ合衆国や南米諸国に送った。これを「教皇庁の抜け穴」という。
 南米亡命のルートは、イエズス会が切り拓いたものだった。ナチスの幹部の1人は、カトリックの宣教師ファン・ヘルナンデス名義のパスポートで南米に逃れたことが確認されている。南米に逃げたナチ残党の中に、アウシュヴィッツの医師、ヨーゼフ・メンゲレ博士がいた。メンゲレは、連合国側に「第1級戦犯」として指名手配を受けたにもかかわらず、4年間をアメリカ軍占領地域内で過ごし、ナチスの逃亡ネットワークの助けでスイスからイタリアに入国、船でアルゼンチンに渡り、パラグアイやブラジルで生き延びた。340万ドルの賞金をかけられ、ドイツの捜査当局とイスラエルの秘密情報機関に追われたが、実業家として成功し、遂につかまらなかった。
 1947年5月のアメリカ国務省の機密情報報告によれば、ナチ残党とその協力者がヴァチカン教皇庁の活動の対象から除外されていないことが示唆されている。
 「教皇庁は、出国者の非合法な動きに関与する唯一最大の機関である。この非合法な通行に教会が関与したことを正当化するには、布教活動と称するだけでよい。カトリック教徒であることを示しさえすれば、国籍や政治的信条に関わりなく、いかなる人間でも助けるというのが教皇庁の希望なのだ」「カトリック教会が力を持っている南米諸国については、教皇庁がそれら諸国の公館に圧力をかけた結果、元ナチ党員であれ、ファッショ的な政治団体に属していた者であれ、反共産主義者であれば、喜んで入国を受け入れるようになった。実際問題として、現時点の教皇庁は、ローマ駐在の南米諸国の領事と領事館の業務を行っている」と。
 こうした活動に従事した多くの枢機卿や司教らは、ナチ残党の逃亡支援に道を開き、反共産主義の思想によって、それを道徳的に正当化した。それらの枢機卿の一人、ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニは、1963年に教皇パウロ6世となり、カトリック教会の大転換を決めた第2ヴァチカン公会議の運営を行った。この公会議については、現代の項目に書くが、ナチスの残党の海外逃亡を支援した過去を持つ教皇が、そうした公会議を指導したことは、注目に値する。

 次回に続く。

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