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2018年03月15日11:15

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キリスト教21〜悪の問題

●悪の問題

 自由意志の肯定は、人間における悪の問題を生じる。唯一神教の神が人間を創造したという考え方に立てば、自由は、人間における神に似た要素として最も価値あるものである。また同時に自由は神への背反の原因ともなりうるものである。そのことを象徴的に示すのが、原罪と楽園追放の物語である。ユダヤ教では、人間は神の似像として創造されたものとして、神のように恵み深く、憐れみに富み、正しく完全でなければならない。人生の目的は、今も進行中の神の創造の業に参加し、これを完成して創造主に栄光を帰すことである。しかし、エバが禁断の知恵の実を食べて楽園から追放されたように、人間の本性には悪の衝動が含まれている。ユダヤ教は悪の衝動を抑えて神の創造の業に参加することは、各人が自由意志に基づいて決定しなければならないと教える。
 キリスト教で自由意志を肯定する考え方をすれば、ユダヤ教と同じように考えることになる。神の意志に従うのが善、それに反するのが悪だとすると、人間は自由意志を持つことにより、最初の悪としての原罪を犯したが、自由意志によって善を行うことができ、善行・功徳によって救いを得ることができるということになる。
 一方、自由意志をまったく否定すると、複雑な問題を生じる。善も悪も人間の自由意志によるものではないことになり、善も悪もみな神の意志によることになる。いかなる極悪非道もすべて神の意志によるとすれば、善も悪も実質的に同じことになってしまう。これは、予定説の深い陥穽である。
 悪の問題に関して、ユダヤ教及びキリスト教には、見逃せないものがある。エバが禁断の木の実を食べるように唆した年老いた蛇、堕天使とされるルチフェル(英語読みはルシファー)、荒野で修行するイエスに挑んだ悪魔、世の終わりに出現するとされるアンチキリスト等の存在である。これらは、悪の問題は人間に限るものではなく、人間以前及び人間以外に淵源することを示唆するものである。
 まず蛇についてだが、『創世記』3章に、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」と書いてある。人間創造の時点で、人間より賢く、人間に働きかけるものがあったわけである。『創世記』は、続ける。「蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』。女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです』。蛇は女に言った。『決して死ぬことはない』。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」と。
 『創世記』は、続ける。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』。アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』。主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか』。女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました』。」と。
 アダムと女は、神から隠れようとした。アダムは、木の実を食べた原因を女のせいにした。女はそれを蛇のせいにした。人間は知恵の実を食べたことで、神の意思に背き、知恵を悪用することを覚えた。だが、悪は人間において、はじめて生じたのではない。既に蛇において悪は存在していたと考えられるからである。また、神が創造したものの中に人間に神の意思に背くように唆すものがあったとすれば、神による創造は完全ではなかったことになる。神の絶対性を強調しようとした堕罪前予定説は、この誘惑者としての蛇の意志と行為をも、神は予定していたかどうかを明らかにしなければならないだろう。
 なお、蛇に関しては、人間の根源的な欲望を象徴したものという心理学的な解釈もある。それが性的な欲望であれば動物的な本能であるから、知的生命体の知恵とは結びつかない。自己本位の支配欲であれば、神を中心とした生き方に対する自己中心の生き方への欲望と考えることができる。生物には繁殖・繁栄し、環境を占有しようとする性向がある。そのために知能を発達させて支配を実現しようとする。そうした支配欲に根差した知能の発達を、蛇に象徴したという解釈は可能である。
 さて、悪魔は、悪及び不義の擬人的な表現である。ユダヤ教及びキリスト教では、神の敵対者を意味する。その悪魔の中に、元は大天使だったルチフェルがいるとされる。天使は、悪魔と対照的な善なる存在である。聖書には、セラピム、ケルビム、ミカエル、ガブリエル、ラファエルなどの天使が登場するが、天使は神の被造物であり、人間より先に創られ、人間より優れた能力を持つものである。神の使者として人間に神意を伝えたり、人間を守護したりする霊的存在である。ところが、その天使の中には、神に反逆した堕天使がいるとされる。このアダムとエバ以前に神に背反したものたちの物語は、聖書に記されていない。ルチフェルは堕天使たちの頭領であり、もともとはすべての天使の長であったが、神と対立し、天を追放されて神の敵対者となったとされる。魔王(サタン)とも呼ばれる。サタンの存在は、蛇の場合より深刻である。神が創造したものの中から、自由意志を持ち、神に反逆・敵対するものが現れたとすれば、神の全知全能という観念は大きな疑義を生じる。
 どうしてこういうことになったか。ルチフェルは、もともとラテン語で「光をもたらすもの」を意味し、暁の明星つまり金星を指していた。古代ギリシャ、ローマには、惑星を神々と仰ぐ信仰があった。その異教の神々がユダヤ教の中に取り入れられたのだろう。堕天使たちとは、唯一神教の中に取り込まれ悪者にされた多神教の神々と考えられる。異教の神々を取り入れ、自らの民族の神に敵対する者と位置付けることは、他の古代宗教でみられる現象である。惑星の神々に関しては、極めて古い時代の太陽系の大きな変動の記憶が、神話となって表現されているとも考えられる。
 次に、福音書には、荒野で修行をするイエスの前に現れ、イエスに問いを発する悪魔が登場する。イエスはその問いに答え、悪魔は退散したとされる。これがイエスではなく普通の人間が修行をしている時に悪魔が現れたというのであれば、自らの迷いや疑念、欲望等によって潜在意識から湧き上ったイメージと考えられる。それらの妄見・邪念を払拭した時に、悟りに達する道が開かれるだろう。だが、イエスは煩悩を抱えた凡庸な人間ではなく、神の独り子として処女マリアから誕生したとされるのだから、イエスの前に現れた悪魔は、イエスの心が生み出したものとは言えない。その悪魔は、イエスとは別の存在としなければならない。それがどういうものであるか、福音書は具体的に記していない。エバを唆した蛇や堕天使ルチフェルと関係づけて考えることも可能である。
 最後に、反キリスト(アンチキリスト)の観念がある。反キリストとは、世の終わりにイエス・キリストが再臨する前に出現して教会を迫害したり、世を惑わしたりする偽せ預言者や異端、悪魔などをいう。
 『ヨハネの手紙一』は、次のように書いている。「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」(ヨハネ手紙一2章18節)、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(同書4章1節) 、「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(同書4章3節) と。
 ヨハネの手紙の筆者とはおそらく別人が書いたとされる文書に、『ヨハネの黙示録』がある。この文書は、世の終わりの幻影を描いたものと理解される幻想的な文書である。そこに現れる数666は、アンチキリストの象徴とされる。ここには、神と悪魔の戦いという二元的な世界観が見られる。その世界観には、古代イランの創唱宗教であるゾロアスター教の影響が指摘される。ゾロアスター教は、善霊アフラ・マズダと悪霊アフリマンの対立・闘争を軸とする二元論と終末論を説いた。また、ユダヤ教及びキリスト教における天使の観念は、同教のアムシャ・スバンタ(聖なる不死者)に由来するともいわれる。19世紀ドイツの哲学者ニーチェはゾロアスター教に注目し、その開祖の名のドイツ語読みであるツァラトゥストラを主人公とする『ツァラトゥストラはかく語りき』を書き、また自分をアンチキリストに擬している。
 このように悪の問題は、唯一神教における神の全知全能という観念に破綻をもたらすとともに、ユダヤ教及びキリスト教が独立自生した宗教ではなく、古代中東の宗教の影響を受け、その影響を完全に消化することができず、不純物を抱えた状態の宗教であることを明らかにするのである。

 次回に続く。
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