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2016年12月14日08:28

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ファンタジーの中へ(77) 黒古一夫「なぜ村上春樹はノーベル賞をとれないのか」

 書店での雑誌の立ち読みかネットの流し読みなので、雑誌名も正確な標題も覚えていない。おまけにオールド左翼の文芸評論家なので、飽きてしまってもう読まないつもりだったのだが、この分析の前半部分は腑に落ちた。確かにそうだと思ったのである。
 納得したのは、村上の小説はすべて喪失感に満たされている、という指摘だった。確かに「海辺のカフカ」では父親を破滅的な事件で失った少年は、新しい居場所を四国の高松だったかに見つけるのだが、それにしてもその過程で母親らしい女性や姉らしい女性に会うものの、それは失うために会ったようなものだった。従って、読後にも喪失感が残ってしまう喪失のロマンだった。
 「ねじまき鳥クロニクル」は妻を理由不明で失うのだが、再発見の過程は霧の中での出来事のようで、確かに妻の手を握ったという感じがしない。
 「1Q84」では幼馴染とパラレルワールドで再会し、助け合って現世に二人で戻って来る。この場合は、不分明な霧は晴れたようではある。
 「色彩を持たない多崎つくる」は、彼自身のせいでない理由で親友を失う。実は、親友たちも彼に罪はないと知っていたのだが、別の仲間を救うために彼を追放したのである。この場合は、彼自身が自分のライフワークを持っていること、巡礼を共にする恋人を持っていることラストでの喪失感は残らない。
 どうやら喪失感から脱却しつつあるようだが、本当に脱却した時、彼のブランドはどうなるのか、難しいところだろう。

 黒古は村上の問題は、社会参加・アンガージュマンがないことで、大江健三郎と比べた時に一目瞭然だという。この部分が納得できない。
確かに、「多崎つくる」の場合も、確かに個人的な解決であって、アンガージュマンとは言えない。
 大江の場合反戦平和や原発問題では社会参加があると、実際の行動では声明や集会に参加することで、これがアンガージュマンなのか、サルトルの評論誌「現代」での主張やフランス共産党との連帯と比べた場合にかなり見劣りがするのだが。
 それに、障害児を持った親としての葛藤を描いた「個人的な体験」であるが、私はこれまで「個人的」は出発点であって、アンガージュマンに至るのだと思っていたが、どうやらそんな気配はないようだ。故郷の四国山村を舞台にした小説では、障害児の「光君」も登場するのだが、社会的テーマとしては原発問題、開発を巡る対立などであって、障害児問題ではない。「懐かしい時への手紙」では、障害児でないパラレルワールドの光君が登場して哀切を極めるが、それは「個人的な感慨」と言わねばならないだろう。

 ということで、大江の場合も本家アンガージュマンとはだいぶ違っているし、彼の好きな「百年の孤独」のガルシア・マルケスのような土俗性は少ない。ノーベル賞の対象になった「万延元年のフットボール」でも四国山村の土俗性が描かれたわけではない。やはり知識人による遅れた山村の指導(山村工作隊?)と挫折があるだけである。土俗派の中上健次とはだいぶ違う。

 やはり、黒古の助言は無理なようで、村上春樹には本当に家族を掴んだという小説をめざすべきだと思う。多崎つくるの巡礼の道を進むべきだろうと思う。なんだか黒古批判のようだが、村上春樹を喪失のロマンとしたのは卓見だと思う。その指摘でこれまでのもやもや感が晴れたことに感謝したい。
喪失のロマンと言えば、柴田翔「されど我らが日々」が思い出される。確かに感じが似ている。


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