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2016年06月23日09:48

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人権322〜非西洋における宗教的寛容の伝統

●非西洋における宗教的寛容の伝統

 センは、宗教的寛容、デモクラシー、自由は西洋のみの産物ではないとし、非西洋にもこれらの伝統があることを指摘する。
 センの祖国は、インドである。インドは、多数の言語と種々の宗教・宗派を共存共栄させるという大きな課題に挑戦してきた。インドでは、デモクラシーが機能不全に陥ったら、国家の統一は保ち得ない。インドのように驚くほど多様性に富んでいる国の存続と繁栄にとって、デモクラシーは必要不可欠である。その根底にあるのは、宗教的寛容である。
 センは、『人間の安全保障』で、次のように書く。インドは、第2次世界大戦後独立し、「20世紀最大の民主主義国」となった。「この時の議論は、欧米諸国がそれまでの民主政治で経験してきたことを参考にしただけでなく、インド本来の伝統にも立ち返ったものだった。(略)ネルー(註 インドの初代首相)は、アショカ王やアクバルなど、インドの皇帝の統治方法に見られた異教や多元主義への寛容性を特に強調した。こうした寛容な政治体制のもとで公の場における議論が奨励されてきたことが、現代インドの複数政党制につながったのである」と。
 センは、様々な著書で、インドにおける宗教的寛容の歴史的な事例を繰り返し述べている。
紀元前3世紀のアショカ王は、最初厳しく過酷な王だった。だが、戦いでの勝利の残虐な現実を目の当たりにして、道徳的政治的優先順位を変え、ゴータマ・ブッダの非暴力的な教えを受け入れ、次第に彼の軍隊を解隊し、奴隷や不自由労働者を解放し、強大な支配者であるよりも、道徳の師であろうとした。他の宗派に対する寛容を重視し、他の宗派の人たちは、いかなる場合も、いかなる点でも、十分に尊重されるべきであることを主張した。残念ながら、アショカ王の広大な帝国は、彼の死後、間もなく小さな領域に分裂した。
 次に、センが挙げるのは、アクバル帝である。1590年代のインドで、ムガル帝国のアクバル帝は、多文化社会であるインドでいかに調和と協調を達成するかを課題としていた。アクバル帝は、宗教的寛容の必要性を宣言し、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、パールシー教徒、ジャイナ教徒、ユダヤ教徒、無神論者等と対話する努力を続けた。アクバル帝は、さまざまに異なる宗教の美点を融合させながら、それらを統合しようとも試みた。当時、ローマのカンポ・デイ・フィオーリ広場では、ジョルダーノ・ブルーノが異端のかどで火あぶりの刑に処せられた。
 センは、インド以外にも宗教的寛容の事例があることを挙げている。その一つが、サラディンである。12世紀のユダヤ人哲学者マイモニデスは、偏狭なヨーロッパから移住を余儀なくされた。その時、彼はアラブ世界に寛容な避難所を見出した。カイロのサラーフ・アッディーン帝の宮廷で名誉と影響力のある地位を得たのである。このアッディーン帝は、十字軍が遠征した際に、イスラム側で激しく抵抗したサラディンである。サラディンのみならず、イスラム文明は他宗教に対して寛容だった。それは、宗教裁判が横行した西欧とは、顕著な対比をなす。
 センは、他の例も挙げながら、西洋にも非西洋にも「寛容な事例は多数あり、また非寛容な例も同じくらいある」「正しく改める必要があるのは、寛容の問題で西洋だけが特別だったとする、不十分な研究に基づく主張」であると述べている。(『人間の安全保障』)
 近代西欧で自由の思想が発達したのは、宗教的寛容の定着・拡大と切り離せない。そのことは、第2部に書いた。だが、自由は決して西洋でのみ発達したものではない。古代ギリシャのポリスと近代西洋文明のイギリス、アメリカ、フランスを結びつけて、あたかも近代西欧発の自由思想が、古代ギリシャのそれらを直接継承し、発展させたものであるかのように説くのは、誤りである。
 センは、このことを明確に指摘している。『正義のアイデア』で次のように言う。
 「西洋の古典的著作の中にも、自由を擁護するものと批判するものがあり、(例えばアリストテレスとアウグスティヌスとを比べてみよ)、西洋以外の著作にも同様に擁護と批判とが混ざり合っている(アショカ王とカウティリアを比べてみよ)」「自由を擁護するものと自由を批判するものの間の差が、地理的な二分法によってとらえられるなどという期待はほとんど持てない」と。
 引用文中のカウティリアは、古代インドのマガダ国マウリヤ朝初代チャンドラグプタ王の宰相・軍師で、「インドのマキャヴェリ」と評される人物である。センの比較文明論的な指摘は、的確である。

 次回に続く。
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