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2016年05月10日10:20

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人権305〜自由で独立した個人と価値中立的な政府

●自由で独立した個人と価値中立的な政府

 ロールズは、『正義論』で、善に関する特定の考え方に基づく正義の理論は、宗教的なものであれ世俗的なものであれ、自由とは相容れないという考え方を打ち出した。ロールズによると、正義より善を優先する理論は、特定の価値観の押し付けとなる。
 近代西欧に現れた自由で独立した個人という人間観は、どのような目的に対しても中立で、道徳的・宗教的な問題で特定の思想に拠らず、国民が自由に価値観を選べるような権利の枠組みを必要とする。ロールズにおいては、この枠組みが正義とされた。国家において、正義は法として制度化される。正義の法の核心は、17世紀以降、欧米諸国の憲法で保障されるようになったいわゆる人権を定めたものである。
 先に正義と善について書いたが、ロールズは、正義と善の区別を提唱し、正義の善に対する優先を主張した。このような正義論は、近代西洋文明における個人と政府の関係を理論化したものである。
 個人が自分で目的を選択できる自由を確保するためには、政府は価値に対して中立でなければならない。自由に選択できる自己と価値中立的な国家は一対をなす。個人主義的な自由主義と価値中立的な国家観は、表裏一体である。
 だが、現実の国家には由来があり、歴史がある。伝統があり、国柄がある。そうした国家を、価値中立的なものとして理論化するには、社会契約説によるしかない。社会契約説では、自由で独立した個人が契約によって国家をつくるとするから、政府を価値中立的なものとする契約が可能となる。そこに理論上、自由に選択できる個人と価値中立的な政府という関係が設定される。
 ロールズは社会契約説を一般化するに当たり、カントの思想に依拠した。自らの『正義論』は、カント主義的であると自認していた。1980年の講演では、自らの立場を「カント的構成主義」と称した。カント的構成主義とは、「公正としての正義」の方法論的側面を強調する名称である。カント的な自由で平等な道徳的人格の諸個人が合意を積み上げていくという手続きから正義の原理を引き出そうとする方法であり、こうした合意形成以外に正義の原理を定める独立した基準はないという立場である。
 ただし、ロールズは、カント的構成主義がもたらす正義の原理は、近代の民主的社会における基礎的な諸制度には妥当するけれども、必ずしもすべての時代、すべての社会に当てはまるものではないと断っている。ということは、ロールズの正義論は、近代西洋文明における個人と政府のあるべき姿を説くためにひねり出したものだということになる。

●ロールズの脱カント主義化

 ロールズは、カントの思想のある部分を継承してはいるが、カントの道徳哲学が包括的な思想体系に基づくものであるのに対し、政治の分野に課題を限定し、多様な価値観と信条が併存する民主的な社会における政治道徳を追求した。
 ロールズは、前期の『正義論』では、カント的な自由で平等な道徳的人格を主体とし、カントにならって正義論を道徳哲学によって基礎づけようとする姿勢を示していた。だが、1980年代半ばごろからその姿勢を修正しはじめ、次第にカントの道徳哲学から離れていった。1996年刊行の『政治的自由主義』では、あくまで政治の分野に限って社会正義を構想する姿勢に変わった。
 後期の主要著作となった『政治的自由主義』では、自分の考える自由主義は、「そもそも人格の概念に基づいていない」とし、正義の善に対する優先は人格概念を前提しない方向へ向かった。生前最後の著書『公正としての正義 再説』では、「公正としての正義は、正義の一般的な構想ではなく、政治的な構想なのである」と明言している。
 その結果、後期ロールズの人間観は、世界人権宣言に見られるロック=カント的人間観とは違うものとなった。世界人権宣言は、人間の尊厳を認め、個人の自由と人格を尊重するが、人類を家族とし、世界平和という目的に向けた人格的発展を期待している。そこには、個人の選好を自由とする個人主義的自由主義とは異なる要素が含まれている。私は、宣言にはロールズとは別の仕方でのカントの影響を見る。
 第2部にカントについて書いたが、私はロールズとは異なるカント理解をしている。ロールズは、カントの哲学は目的論ではないとする、だが、カントは、大意次のように説いている。道徳的実践の目的は善であり、究極目的は最高善であるが、人間は最高善を実現するには力不足である。そこで最高善の実現を根拠づけ、徳性と幸福の一致を恵み与えるものとして神が要請される。また最高善に到達するには無限の努力が必要であるので、霊魂の不滅が要請される。また人間は、単に感官的存在者ではなく、叡智的存在者であり、理性が課す義務を負う人格とみなさなければならない。互いに、単に手段ではなく、目的そのものとして尊重されねばならない、と説いた。また、自然は必然的な法則に支配されているが、最高善を目指す道徳は意思の自律に基づく。感性界において自由を実現するには、自然に合目的性がなければならない、とカントは考えた。そして、反省的判断力は、自然に合目的性を見出すとして、美、崇高の感情、有機体における合目的性を論じた。そのうえで、われわれは世界を目的に従って脈絡づけられた一つの全体また目的因の体系とみなす根拠または主要条件を持っているとして、一切の存在者の根源にある存在者は叡智体であり、全知にして全能、寛仁にして公正であり、また永遠性・遍在性を持つものでなければならないと説いて、目的論によって神学を基礎づけた。カントの自由は、神的理性につながる実践理性によって定言命法を実行することであって、幸福追求の自由ではない。カントは、キリスト教的で目的論的な道徳哲学を説き、「目的の国」を実現すべき社会の目標とした。また彼の説いた「永遠平和」は、世界史の目的であり、神の計画の実現という暗黙の前提に立ったものだった。それゆえ、カント哲学には目的論的な側面があるのであって、ロールズのカント理解は、極めて一面的である。
 ロールズは、カントの正義論を超越論的観念論の思想体系から切り出した。そして、経験論の規範にはめ込み、独自の仕方で作り変えた。その際、カントの背景にあったキリスト教思想を希薄にし、またカントにあった目的論的な要素を除去した。それによって、ロールズは、思想・信条に関わりなく受け入れられる正義の理論の構築を試みた。そこに提唱されたのが、「政治的自由主義」という立場である。これは、ロールズが構成主義という方法を除いて、自身の思想を脱カント主義化した結果である。

 次回に続く。
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