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2016年03月04日08:49

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イスラーム24〜一神教文明群における文明間の戦争

●一神教文明群における文明間の戦争

 ハンチントンは、1996年(平成8年)に『文明の衝突』を出版した。本書でハンチントンは、文明のアイデンティティが、冷戦終結後の世界における人々の結束や分裂、対立のパターンを形成しつつあると説き、特に西洋文明とイスラーム文明の衝突の可能性とその回避の方法を論じた。その理論は、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を予測したものとして世界的に話題を呼んだ。ハンチントンについては、拙稿「ハンチントンの『文明の衝突』と日本文明の役割」に書いた。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09j.htm
 ハンチントンは、異なる文明と文明がぶつかる断層線(フォルトライン)で文明の衝突が起こると説いた。イスラーム圏においては、1979年(昭和54年)にイラン革命が起こったが、その年は旧ソ連がアフガニスタンに侵攻した年でもあった。ハンチントンは、ソ連の侵攻によるアフガン戦争をもって、「最初の文明の衝突」だとする。この冷戦間に起こった戦争に続き、冷戦終焉後に起こった「第二の文明の衝突」は、湾岸戦争が始めだという。ハンチントンは、これらの戦争がイスラーム文明側にとって持つ意味を重視している。
 アフガン戦争について、ハンチントンは次のように言う。「この戦争におけるソ連の敗北はまた、ソ連の社会や政治権力者全体にある事実を浸透させ、ひいてはソ連帝国が分裂する大きな要因ともなった」。アフガン戦争は「イスラーム教の行動基準にのっとっての、外国勢力にたいして成功した初めての抵抗だった。それはジハード(聖戦)として戦われ、イスラーム教徒の自信と勢力が飛躍的に高まることになった。この戦争がイスラーム世界に与えた影響は、1905年(明治38年)に日本がロシアに勝ったときに東洋世界に与えた衝撃にも劣らぬものだった。西洋は自由世界の勝利だと思ったのだが、イスラーム教徒はイスラーム教の勝利だと考えたのである」「特に重要なのは、自分たちが成し遂げたことから生まれる力と自信に満ちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった」と。
 続く湾岸戦争については、次のように述べている。「湾岸戦争は、初めはイラクとクェートの戦争だったが、やがてイラクと西洋の戦争になり、ついにはイスラーム圏と西洋の戦争になった」「モロッコから中国にいたる数百万人のイスラーム教徒がサダム・フセインを応援し、彼を『イスラーム教徒の英雄』と呼んだ」「イスラーム教原理主義集団は、この戦争を『新十字軍とシオニスト』の連合軍によるイスラーム教とその文明に対する戦争だと非難」し、イラクを支持した。「イスラーム教徒がこの戦争を西洋対イスラーム圏の戦争だと考えたために、イスラーム世界の内部での反目は弱まり、後回しにされた」「アフガニスタンでの戦争と同じように、湾岸戦争はイスラーム教徒を一体化した」と。
 アフガン戦争と湾岸戦争は、ハンチントンが言うように「文明間の戦争」となったが、私は、これらをユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立・抗争ととらえた方がよいと考える。また、この文明間の衝突は、同じセム系一神教文明群の中での衝突である。アブラハムの子孫同士の戦いであり、異母兄弟の骨肉の争いである。
 ブッシュ子政権は、9・11をきっかけに、「新しい十字軍戦争」を唱導した。これは、アメリカ=イスラエル連合つまりユダヤ=キリスト教とイスラーム過激派との戦いであり、セム系一神教文明群の中でのユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の戦いである。
 アメリカは、2003年(平成15年)にイラクに侵攻し、フセイン政権を打倒したことによって、多くのイスラーム諸国で反発を買った。イランは、アメリカとイスラエルへの対決姿勢を鮮明にした。親米的なサウジアラビアやクェートでさえ、アメリカべったりの姿勢を変えた。西洋文明とイスラーム文明の対立は、深刻化した。アメリカの策謀や失策が、一神教文明間の争いを激化させてしまった。

 次回に続く。

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