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2015年01月30日08:52

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人権133〜日本における国民国家形成

●日本における国民国家の形成・発展

 19世紀後半には、アジアの大部分が西欧諸国の植民地・半植民地となった。アフリカでは、1880年代から急速に植民地化が進んだ。近代世界システムの支配・収奪の構造を打ち破る先頭を切ったのが、日本だった。わが国は、有色人種で初めて近代化を成し遂げ、国柄を踏まえた国民国家を建設し、リベラル・デモクラシー、ナショナリズム等を摂取し、伝統文化を生かしながら、独自の仕方で発達させた。日本の発展はアジア、アフリカ諸民族に勇気と自信と教訓を与えた。
 なぜ日本にそれができたか。理由は、日本の文明学的な特徴にある。日本は、古代にはシナ文明の影響下にあった。だが、早ければ9世紀末から10世紀、遅くとも12世紀末〜13世紀には、日本文明は精神的にも制度的にも主要文明となった。9〜10世紀の指標は遣唐使の廃止・仮名文字の使用・律令制の形式化、12〜13世紀の指標は公武の二重構造化・元寇の克服・封建制の発達である。こうして後成型の主要文明として確立した日本文明は以後、一国一文明として発達してきた。
 日本は、古代から朝廷が治めるエスニック国家を中心とした歴史を歩んできた。日本史における前近代の国家には、古代の部族国家・部族連合国家、中世・近世の封建制国家がある。これらも地域的なエスニック国家と見ることができる。上位のエスニック国家の内部に下位のエスニック国家が一部包摂され、一部併存しているという関係である。
 古代朝廷国家は、天皇の下での貴族政治に移り、平氏・源氏の戦いを制した源頼朝が12世紀末、鎌倉に幕府を作った。頼朝は、朝廷が統治する律令制国家のもとで諸国に分裂していた状態から、東北も一定程度含む統一国家を実現した。その国家の構造は、朝廷―幕府―地方国家(地方行政区)の三層構造であり、職位の序列は天皇―征夷大将軍―守護だった。以後、武士による政治が約700年続いた。この間、地方国家の統治者は、守護から守護大名、戦国大名、藩大名へと変遷した。また統治制度は、室町時代の守護領国制、戦国時代の大名領国制度、徳川時代の大名知行制へと変化した。
 国民国家の形成との関係から特に注目したいのは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康である。彼らは、戦国時代に国内が分裂していたのを再び統一することに成功した。1603年の徳川幕府の開設によって、北海道の一部を除いて、エスニックな統一国家が実現した。この年は、大ブリテン島でイングランドとスコットランドの同君連合が成立した年である。連合王国ができたのは、約100年後の1707年である。当時の日本は、イギリス・フランス・ドイツ等の倍の人口があったと考えられるので、その人口規模でほぼ全国的な統一国家を作ったことも、すごいことだった。
 信長・秀吉・家康による国家統一は、古代から続く天皇を中心とした国家の再建設だった。信長・秀吉は、そのために天皇の権威を仰ぎ、秀吉は律令制による関白に任命された。家康は頼朝と同じ征夷大将軍に任命され、朝廷の権威と幕府の権力を以て、幕藩体制を作り、日本を統治した。
 信長・秀吉・家康が日本を再統一したのは、西欧発のリベラリズムやナショナリズムによるものではない。武力による平和の実現、平和による繁栄の追求を目指す意思による。日本文明にとって、西洋文明が東漸してくる時代に、統一国家を築くことができていたのは、幸いだった。国内が戦国時代のまま分裂・闘争していたら、白人種によって征服・支配されたかもしれない。
 16〜17世紀の日本には、スペイン、ポルトガルからキリスト教の宣教師が来た。信長は宣教師と交流し、秀吉は宣教師を処刑し、徳川幕府は禁教令を出し、鎖国を行った。幕府は、キリスト教に対して日本の伝統・文化・国柄と相容れないものを感じ、その伝道による西洋文明の侵入を防ぐため、1633年から鎖国政策を行った。だが、鎖国している期間も、キリスト教の宣教を行わないオランダ及び清とは、交易を行った。西欧が1648年以降ウェストファリア体制にあったことを考えると、オランダと外交を行う日本は、国際的には一個の主権国家だったといえる。
 日本は、鎖国政策によって欧州支配の近代世界システムから離れて、自給自足の体制を築いた。このことが、日本文明を熟成せしめた。江戸時代の日本人は、日本文明の独自性の自覚を深めた。言語は日本語、文字は漢字とそれを基に作ったかなであり、漢字かな混交文を使用した。宗教は、固有の宗教である神道とインド・シナ伝来の仏教が融合的に共存していた。日本神話や古文書、歴史書が研究され、日本の国柄が明らかにされた。シナ模倣ではない、日本独自の思想が発達した。自給自足による豊かな生産力を基盤として、日本固有の芸能である歌舞伎、人形浄瑠璃、浮世絵、俳諧などが発達・完成した。全国に多数の寺子屋が作られ、青少年が文字を学習し、和漢の文献を読んでいた。日本文明は、約250年続く世界史上に希な平和の時代の中で、人と人、人と自然の間の和を実現した文明として大成した。
 こうした日本文明に、再度、西洋文明との衝撃的な出会いが来た。黒船の来航である。15世紀から西欧で発生した近代化革命の進展する文明が、日本に到達したのである。この近代西洋文明の「挑戦」に対し、わが国は見事な「応戦」を行った。近代化の進展する欧米列強は、強力な軍事力と高い科学技術を持っていた。その前に、幕末の日本は開国を余儀なくされ、屈辱的な不平等条約を結ばざるをえなかった。もし日本人同士が分かれて争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれがある。大陸で清国はアヘン戦争で列強に敗れており、日本人は、非常な危機感を持った。そうした中で、藩を超えた国民意識が形成された。記紀の神話、『大日本史』に基づく歴史的記憶、これらに加えて現実に存在する皇室が、エスニックな集団意識の核となった。尊皇倒幕・近代国家建設の動きは、外敵の襲来に対し、民族の興亡をかけてエスニック・グループがネイションを形成する動きとなった。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「人類史の中の日本文明」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09c.htm
・拙稿「ヤスパースの『新基軸時代』と日本の役割」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion11b.htm
・拙稿「ハンチントンの『文明の衝突』と日本文明の役割」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09j.htm

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