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2014年08月24日08:52

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人権110〜1789年人権宣言後の迷走

●1789年人権宣言の後の迷走

 1789年の人権宣言は、人権思想の発達において、確かに画期的な内容ではあった。1791年憲法がその一部として宣言をそのままこれを取り入れ、実定法の規定ともなった。だが、宣言は、フランスにおいて多くの国民が納得するようなものではなかった。対立・抗争の可能性をはらんでいた。というのは、宣言発布の後、1795年までの6年間に3つの権利宣言が出されているのである。すなわち、ジロンド憲法草案における権利宣言(1793年)、モンターニュ派憲法における権利宣言(1793年)、共和暦第3年の権利義務の宣言(1795年)である。89年版を含むと6年間に計4回の宣言が出されたわけである。
 1793年のジロンド憲法草案における権利宣言は、憲法委員のダントン、シェイエスらが起草し、数学者のコンドルセが主導的役割を持った。前文はなく、「至高の存在」への呼びかけはない。89年宣言の17条に対して、33条と約2倍になっている。89年宣言は、権利の記述に詳しいところや簡単なところとのムラがあり、反復重複が多く、権利の相互関係、権利と基本原理の関係が明確でなかった。ジロンド宣言では、これらの点が修正され、構成・内容に一貫性が見られる。だが、国民公会では、ジャコバン派が勢力を得て、穏健的なジロンド派の憲法案は猛烈な攻撃を受けた。憲法本文の前に置く権利宣言のみが、93年4月に採択された。
 特に急進的なモンターニュ派が実権を握ると、ジロンド派は他の党派とともに追放・粛清された。そのため、権利宣言を含むジロンド憲法草案は流産した。国民公会は、新たな憲法草案を作成することとし、ロベスピエールを中心とする公安委員会がその任に当たった。新たな権利宣言は、ジロンド宣言を取り込んだうえで、平等主義的な傾向を強くした。国民主権ではなく人民主権、男子の普通選挙、人民の生活・労働の権利等に特徴がある。憲法草案は93年6月に可決され、翌月から翌々月にかけて人民投票に付された。700万人の投票権者のうち、190万人しか投票しなかったが、その9割の賛成で可決された。これによって、89年宣言を含む憲法に替わって、新たな宣言を含む憲法が制定されたわけである。
 ところが、この権利宣言は、遂に適用されなかった。人民投票で可決されたにもかかわらずである。国民公会は、施行を延期した。そして、独裁者となったロベスピエールは、権利宣言を無視した恐怖政治を行った。人民から権力を委託された政府によって、人権宣言とは正反対のことが強行されたのである。
 ただし、人権宣言の条項が守られなかったのは、1793年に始まったことではない。89年の段階で既に宣言の条項は何も守られず、それとは正反対の不当逮捕や不当拘禁が行われた。恐怖政治は89年の革命の当初から行われていた。宣言の発せられた直後から、国民議会は、反革命の陰謀を探るための委員会を設置して、郵便物を開封、逮捕状なしに逮捕、正規の手続きを踏むことなしに拘禁、移動の自由を妨害するなどした。国民の人権を守ることより、権力者の権力を守ることが、実際の政治の目的なのである。
 ロベスピエールの独裁への反発は、強まった。94年7月クーデタが決行され、ロベスピエールは絶命した。モンターニュ派は失脚し、穏健派が勢力を回復した。国民公会は、93年憲法を無政府主義の所産とし、人民投票は詐欺及び暴力により無効であるとして、新たな憲法を作成した。草案は95年人民投票に付されたが、一般の関心は極めて低く、投票者は100万人に満たなかった。9割が賛成したものの、有権者の8分の1の賛成で、憲法が制定されたのである。
 95年には穏健な共和派による総裁政府が成立した。だが、憲法の権利宣言で声明された権利は、あまり尊重されなかった。特に出版の自由及び個人の安全は、守られなかった。憲法という文書に理想的な言葉を並べても、政治権力がこれを順守するとは限らない。法を裏付けるものは実力であり、実力は法の規定を無視して行使されうる。フランス市民革命では、文書と現実は極めて大きく乖離し続けた。99年のナポレオンによるクーデタ、統領政府、帝政という展開においても、この傾向は一層強まった。
 その後もフランスは政体の変化に伴い、1814年憲章における権利宣言、1848年憲法の権利宣言が出され、そのたびに権利・義務に関する規定は変化した。革命や失脚によって統治者が変わると、権利義務に関する思想も変化した。1789年の人権宣言は、決して不朽の金字塔ではなく、次々に書き換えられた原版に過ぎなかった。しかし、20世紀に至り、1946年第4共和国憲法は、前文に「フランス人民は、1789年の権利宣言によって承認された人及び市民の権利及び自由並びに共和国の諸法律によって承認された基本原理を厳粛に再確認する」と書いた。それによって、89年宣言は、新たな意義を与えられた。だが、市民革命以後のフランスの歴史を振り返る時、人権の思想は根本的に再検討すべきものであることが、明らかになる。

 次回に続く。
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