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2014年08月05日11:48

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ファンタジーの中へ(34) 写楽変幻

 写楽本はブックオフ100円であれば、買い集めたので今は5冊ある。それを思い出したのは、篠田正浩監督、フランキー堺(堺正俊)総合指揮による映画「写楽」1995年 を見たからである。ウィキによれば、写楽研究家でもあるフランキー堺は川島雄三監督のもとで映画にしたかったそうであるが、映画化が遅延し川島監督も亡くなったので篠田監督になったとのこと。
 ということで、時は、寛政期、松平定信の寛政の改革で窒息しかけた江戸の町、そして財産半減の刑を受けた蔦屋重三郎(フランキー堺)が起死回生をかけて、今までにない歌舞伎役者の大首絵(顔だけの絵)を大量に発行することにした。画家を誰にするか、それは若き北斎が見つけてきた砂絵描きの子で、迫真の獄門首を描いて見せた大道芸人一座の男(真田広之)であった。
 篠田監督だからなのか、吉原や芝居小屋など絢爛豪華にして、また残酷。信長の生涯を「華麗にして残酷」と評したのを見たことがあるが、この映画もそうだった。逃げようとしたからかリンチの上刺し殺すのを他の遊女たちに見せていたり、獄門首をさらしていたりの場面があった。また同時に、写楽だけでなく、無名時代の北斎、鶴屋南北、十辺舎一九、馬琴、京伝などが、蔦屋のまわりに集まってくる。だから、なんだか筋がよくわからないという欠点もあったが。写楽と一緒に獄門首をみた南北は、「江戸にいてもうだつが上がらない、上方へ行く。首が飛んでも動いて見せらあ」と見栄を切って去って行った。
 すでに超有名であった美人画の歌麿(佐野史郎)は、蔦屋で育ったにも関わらず、傾いたとみればライバルの書肆へ寝返ってしまうという計算高い陰謀家として描かれていた。
なお、蔦屋は吉原門前にあり、重三郎一代で江戸の代表的な書肆(出版、販売)になったとのことである。
 ところが、匿名作家として売り出した写楽の絵は評判にはなったが、それは悪評で、蔦屋の起死回生にはならなかったし、重三郎も病に倒れる。映画の最後の場面は重三郎の華麗な葬儀の行列であった。ところで、肝心の写楽だが、どういうわけか吉原の大夫(葉月里緒菜)にほれこんでしまった。彼の汚い絵を苦々しく見ていたのが歌麿で、手下を使って写楽を突き止め、惚れ込んだ吉原の大夫を変装させて、筆を絶て江戸から消えろと送り出すのだが、たちまち見つかって、写楽は手首を切られ? 橋から投げ落とされる。大道芸一座のおかん(岩下志摩)は写楽を抱きあげてなげく、で死んだと思ったのだが。最後に、ただの女郎におとされた大夫を物陰からじっと見つめている写楽の姿が最後にあった。幽霊かも、切られの与三かも?

 つまり、ここでの写楽は、全く無名で浮世絵も描きたくて描いたというより重三郎にそそのかされてしぶしぶ描いたのだから、重三郎が死ねば写楽も存在しなくなる、という論理であった。私が持っているのは、田中英道「写楽は北斎である」祥伝社、田中譲「写楽」芸術新聞社(歌麿説)、中右 瑛「写楽は十八歳だった」里文出版(浮世絵師鳥居清長の息子清政説)などが写楽別人説(有名人の別名説)である。
 もう一冊、安藝育子「我が祖写楽」さあかす出版部 は、この映画と同じくまったくの無名人をあてている。これがユニークなのは、題名にあるように自分の先祖だとしていることである。
 安藝家は江戸時代の高松藩の藩主お目見えの豪商であり、写楽は、その板屋八代の板屋安藝幸四郎英柱だとする。この説の一番の柱になったのが、摺り師五世板隈を名乗る浦田儀一氏から聞いた板隈の伝承であった。初代は蔦屋重三郎の摺り師で、重三郎の死の床で「写楽を出したのは板屋じゃねえ蔦屋だよ」と聞いたとのことである。名は有名人と同じで幸四郎だったというのである。浦田氏は、いたやとは版木屋のことだと思っていたが、著者には安藝家の屋号だと、それに幸四郎も実在したと思い当たった。
 それでは板屋幸四郎英柱とは何者か? 安藝家の伝承のとおり、香川県津田の浜、琴林公園に板屋幸四郎英柱の碑があった。津田は板屋家の広大な屋敷のあったところなのである。
そして、高野山を探したところ、空海の墓所のそばに伝承どおりの地蔵があった。八代はたくさんの寄進や寄付をしていたのである。
 著者は、誰が写楽かを語るためには平賀源内、大田南畝、蔦屋重三郎の三人との関係が強いことが必須であるという。
 まず、平賀源内は、高松藩のうんだ鬼才であり、西洋画を学び応挙や司馬江漢に写実技法を教え、自分でも肖像画(つまり大首絵)も描いている。そして、七代板屋(俳名、文江)の親友だったというのである。高松のもう一人の豪商の宇治屋渡辺家の俳名桃源と三人で、江戸へ出立する源内を有馬温泉まで見送っていて、そこでの句集「紀行 文江」が発見されたとのことである。
 八代板屋英柱は応挙の絵の弟子でありパトロンでもあった。
著者は、彩色した錦絵や雲母摺りの発案者で、蔦屋に出入りしていた源内が、英柱を蔦屋重三郎に紹介したと推定している。残念ながら証拠はないのだが。

 狂歌で有名な(・・・たった四はいで夜も寝られず)大田南畝(蜀山人)と蔦屋重三郎(狂名、蔦の唐丸)は狂歌仲間であった。その大田南畝の浮世絵類考が写楽を伝える原点になっている。これは次々と描き足されていったものだが、その最初のものは寛政十二年の「これまた歌舞伎役者の似顔をえかきしかあまりに真をえかかんとてあらぬさまにかきなせしかは長くよにおこなはれす一両年にして止ム」である。
 著者は南畝は写楽を知っていたはず、という。その根拠は「一両年にして止ム」だとする。なぜなら、寛政十二年(1980)は、写楽が去って、多分1875、6年頃だろうから4、5年にしかならない。それなのに「止ム」とどうして断定できるのか。それは、もう帰ってこない理由、つまり板屋の破綻を知っていたからだとするのである。
 では、なぜはっきり描かなかったのか。大田南畝は田沼意次時代は狂歌作者として幕政を皮肉ったりしていたが、寛政の改革の弾圧を恐れ、また46歳にして試験に合格しまじめに幕政に参画することにしたのである。もう危ない遊びはできない。余談だが、この時、遠山金四郎景元(つまり、桜吹雪の金さん)も合格して、次に来る水野忠邦の享保の改革を北町奉行として町人の立場から手抜きしていたとのことである。これで奉行を首になったが、次の開明派の老中阿部正弘で南町奉行で異例の復活をしたとのこと。

 で、蔦屋の財産半減の苦境を助けるために、江戸滞在中の板屋英柱は、雲母摺りの大首絵を描き、蔦屋から自費出版することになった。結局、評判は悪く蔦屋の復活はならなかったが、損をさせたわけではなかった。これは、苦境にあった蔦屋が、なぜ無名の絵師を起用して一か八かの冒険をしたのか、できたのかという理由にもなっている。

 長くなったが、この本は、写楽説の良しあしだけでなく、地方にいた豪商の生活、趣味人で文化人のパトロンの一面を描き出していることにも価値があると思う。江戸時代の文化は豪商たちのネットワークで全国に及んでいたのである。

 後1冊忘れていた。島田荘司「写楽 閉じた国の幻」新潮文庫 であるが、まだ上巻しか手に入っていないが、これも無名人説である。

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