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2011年10月05日08:54

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時代の中で(11)  時代をいかにつかむか

 村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫1982(単行本1979)は、作家になりたいが、失語症であった青年が、大学の休暇中につきあった友人や恋人との関係を描いた小説である。なにしろ、失語症だから描写といえるものもなく、人間関係の説明も断片的であって、ほとんど短い会話から構成されている。読者としては、状況がよく把握できないのである。こんな小説でよいのか、と言いたくなる。
 これが大江健三郎だと、「個人的な体験」にしても、「万延元年のフットボール」にしても、濃密な比喩と描写に満ちている。息苦しくなるほどだ。大江が、これでもかと描き込んだ印象派なら、村上はあっさり、おしゃれなデュフイというところか。そういえば、海岸の街が舞台になっている。大江の何重にも重なった伝承の森ではない。大江はゴーギャンなのかもしれない。「われわれはどこから来て、どこへ行く」。
 村上の主人公「僕」は、かなり行き当たりばったりな、犬も歩けばというような友人関係をもっていて、したがって、それほど執着があるわけではない。いわば、手が触れられない、その実在が確かめられない、言い換えれば、確かめられなくても良しとしているようである。これまでの小説家としてはかなり異質なのではなかろうか。
 「僕」は、村上自身に重なっているようであるから、私小説作家的なのだが、古典的私小説作家が七転八倒して、自身を解剖しその結果を描写するようなことになならない。失語症の範囲で書くという姿勢のようだ。模範としている小説家も、「僕」が、失敗した小説家と判定している架空の小説家であった。ふざけているという以上に、反文壇的なのである。大江がブレイクやイエーツを引用し、オマージュをささげるのとはなんという違いだろうか。
 しかし、村上は大江を意識している。多分、反面教師なのである。「僕」の友人は「鼠」と名乗る作家志望の青年だが、このねずみは、「個人的体験」では、障害児の子から逃げ腰になっている「バード」に、妻から投げつけられる言葉であり、「万延元年のフットボール」では、語り手(大江自身、バードの後身)が、若者からあだ名される言葉でもある。
 従来の小説のように、正確な描写ではなく、作家修行中の青年の不十分な描写、舌足らずの説明で、逆に、主人公を浮き彫りにしようというのである。読者、特に、自身も作家に憧れているものには、よくわかるのではないだろうか。その地点から、「海辺のカフカ」のようなファンタジーへは、意外に近いのであろう。なにしろ、状況が謎のまま残っていてもファンタジーなら許されるのだから。
 ようするに、この小説は作家志望だが、言葉がでてこない日常や状況をそのまま公開した作家小説であり、それが多くの同類の青年の共感を呼んだ理由であろう。多くの評論家が村上を論じているが、必ずしも評価しているわけではないようだ。「謎をそのままにして終わってしまい、次の小説で明らかにするが、また、新しい謎を残している」、などという評価は、そのとおりだと思うが、良い意味で言っているのではないだろう。
 しかし、それが現実であって、その雰囲気の中で生きていることが、そのまま描かれているわけである。たとえば、賛否はともかく夏目漱石は時代をつかんで提示したが、村上はそのようなこれまでの小説家とは異質であり、謎であるゆえに、気になるのに違いない。
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