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2011年10月19日12:01

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時代の中で(13)  ファンタジーの地平(続)

 村上春樹と河合隼雄の対談集「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」岩波書店1996 を読んだ。これは、村上春樹が何を、いかに考えているかを知るうえで非常に参考になった。
 第一に、村上は自己治療として書いている、心理療法の箱庭づくりと同じようなものと述べる。また、何かのメッセージがあるから書くのではなく、自分の中にあるメッセージを探すために書いている、というのだ。
 これでは、通常の小説の読み方をしていたのでは分からないはずだ。読者は作者と一体となって、メッセージを探さなければならない。普通は、作者のメッセージを受け取って、それが面白い、面白くないと判定して、満足するわけなのだが。
 第二に、心理療法の手法が小説の重要な象徴やモチーフとして使われている。これも分かりにくいところである。「ねじまき鳥クロニクル」では、井戸に降りて「壁抜け」をする場面がある。これは、心理療法の一つとして、こころにそのイメージを描かせるものだそうであが、河合によれば、そのためには肉体的、精神的に大変なエネルギーがいるという。村上は、そのエネルギーを蓄えるためにも運動を欠かさないと言っている。
 第三に、大事なのは偶然であり、因果律では心理療法はできないし(河合)、小説も書かない(村上)というのだ。こちらは、なぜこうなったかと、元へ戻ったりして因果を確かめながら読んでいたのだ。ないものを探していたのだ。
 この偶然性に関連するのだろうが、「ねじまき鳥」の2巻目の終りで、主人公が若い男と殴り合いになり、バットで頭を殴りつける場面がある。このことで、アメリカ人の翻訳者ジェイ・ルーピンが、なぜここまでやる必要があるのか問い合わせてきたが、うまく答えられなかった、と経過を説明している。
 岩宮恵子「思春期をめぐる冒険ー心理療法と村上春樹の世界」日本評論社2004 は、実際に心理療法に適用した事例研究である。
 昨日の読売新聞には、ジェイ・ルーピンが村上春樹の大長編「1Q84」を翻訳して、この主題が、短編「四月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて」と同じものであると解説している記事がのっていた。この短編は「カンガルー日和」講談社文庫1986 にはいっていて、読んでみたが、確かに、ショートショートのようにおしゃれな短編集だった。ルーピンが短編を評価するのに同感である。ネットで調べても、短編のファンが多いようだった。
 内田樹「村上春樹にご用心」アルテス2007 によれば、村上は評論家に評判が悪いそうである。その理由も河合との対談を読めばわかるような気がする。もっとも、評論家の福田和也は絶賛に近いのだが。
 人生は分からない、特に自分の人生が。そこで他人の人生を理解できるように描いた小説を読んで自分の生き方の参考とする、というのが普通の読み方だと思っていたが、村上の小説はそうではない。分からない他人の人生(主人公)を、主人公とともに生きてみよ、というのだ。確かに、分かっていないのは自分だけではない、ということが分かるのだろう。
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