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2024年09月23日12:02

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フランス近代の厚みと色彩 (紀尾井ホール室内管 定期)

指揮者のデュムソーは、初登場。

その音楽には目からウロコ。フランスの若手だけれど、フランス近現代音楽のエッセンスがぎっしり。

ルーセルの《蜘蛛の饗宴》は、その昔、FM放送で聴いたことがあるというだけ。たぶんマルティノンだと思う。CDも持っていない。もちろんナマで聴くのは初めて。

だから、こういう音楽だったのかと目が醒める思い。若い頃はフランス現代音楽というと前衛的でシュールなものだと思い込んでいました。題名からそんなイメージを連想したのでしょうか。確かに印象派音楽の流れをひく新しい響きに満ちているけれど、とっても暖かみと繊細さを感じさせる音楽。こういう近現代和声を心地よいと感じさせることは、響きのよいこのホールであっても希なこと。

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チェロのアルトシュテットは、ドイツ出身だけれどフランス系。紀尾井ホールはこれが二回目。初登場はショスタコーヴィチで、その場で今回の出演が決まったのだとか。音色を自在に操り、色彩の振幅の大きさは、まさにプロコフィエフにぴったり。パリで隆盛を極めた近現代バレエへの未練が内在しているのではと確かに感じてしまうのは、ルーセルに続いて聴いたからでしょうか。

名手ぞろいのオーケストラが、見事なまでにフランスのエスプリに染め上げられたのは、もちろんデュムソーの卓越したリーダーシップですが、久々の登場となったコンマスの千々岩さんのコミュニケーション力のたまものだと思うのです。

これだけの演奏を聴かされたあとでの、ビゼーがまさに目からウロコだったのです。

近年、政治経済の世界でよく聞かれる言葉に『中間層の厚み』というものがあります。所得階層のなかで中間層の比率が高く安定していることが社会を安定させ、国民経済を強化し、健全な民主主義を支える――それが経済財政政策の目標として掲げられることが多い。

《中間層》とは、かつては《プチ・ブル》《小市民》と蔑称的に呼ばれていました。そもそもがマルクス主義の用語。支配層にもなれず、保守というほどの頑強さもなく、ともすれば頭でっかちのリベラルに走りがちなどっちつかずの無党派層。

フランス語のプチ(“petite”)には、そういう蔑みの意味合いがありますが、一方ではどこか軽い。――その軽さの深層に、人間主義・個人主義的な生きることの懊悩と真理が秘められているように思うのです。そういう『中間層の厚み』が勢いづき、とびきり突出していたのがフランスの近現代ではなかったかと思うのです。

「アルルの女」とは、ファム・ファタールに心を翻弄されてしまう小地主(プチブル)の息子の悲劇。それは「カルメン」と同じ。初演では受け入れられなかったのに、作曲者の死後、古今の名曲になることも共通します。それは、分厚い中間層が形成される過程にあった近代フランスだったからこそだと考えるのです。

ファーブルの「昆虫記」がヒットする背景には、学術的なものというよりも、そういう市民社会の形成・成熟があったと言われます。小昆虫たちを愛する趣味趣向は、すなわちプチを愛でる小市民の嗜好そのもの。デュムソーのルーセルは、そういう個人の夢想の物語をものの見事に表出していました。

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もうひとつの「プチ」は、オーケストラの編成とバランス。

今回、紀尾井ホール室内管は、両翼対向・左低弦型8−8−6−4−2 楽譜通りの2管演奏です。2管といえどもホルン4台、コルネット2台、トロンボーン3台も加わった800席の紀尾井ホールのステージいっぱいに拡がった最大級の編成です。

大ホールでのメジャーオーケストラならば、もっと弦のプルト数を増やした大きな編成になりますが、このオリジナル譜通りの小さな(プチ)編成。コントラバスはたったの2台。そのバランスが素晴らしいサウンド効果を上げていました。

その効果というのは、管楽器群が弦楽器群と対等に明確な色彩コントラストを描き出すことの音楽的ドラマです。

そのことは冒頭の前奏曲(第一組曲)から、いきなり目からウロコです。弦楽器群のモノトーンの主題から次々と変奏曲が繰り出されていく。その管楽器のアンサンブルやソロの見事なこと。大ホールの大編成では、こうした管楽器の自立した音色は、埋もれてしまったり、遠い遠景へと追いやられてしまいがち。テンポも少し速めにとっていて個々の楽器のテクスチュアが際立ちます。

そういうことは、あの有名なフルートとハープだけで始まるメヌエット(第二組曲)でも顕著。デュムソーさんは、ここではもはや指揮をせずふたりに任せてしまう。アンコールで繰り返された最後のファランドールでもオーケストラの勢いに任せてほとんど指揮をしない。ラストの二曲は、室内楽的な縮小からオーケストラが大集団となって高揚するその振幅の大きさが見事でした。

そういう室内楽的な自立性、凝縮性と個々の自我が集団となって多彩な膨張を繰り返す近現代のマス大衆文化という点では、まさにプロコフィエフの協奏曲も同じだったのです。その中核にあるのは「中間層の厚み」そのもの。

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ピエール・デュムソー、おそるべし。

この人の、フランス近現代歌劇をぜったい聴いてみたいと思いました。そういえばこの髭づらはビゼーに似てなくもない。






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紀尾井ホール室内管弦楽団 第140回定期演奏会
2024年9月21日(土) 14:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階C席2列13番)

ニコラ・アルトシュテット(チェロ)
指揮:ピエール・デュムソー
コンサートマスター:千々岩英一

ルーセル:交響的断章《蜘蛛の饗宴》op.17
プロコフィエフ:交響的協奏曲ホ短調 op.125
(アンコール)
バッハ:無伴奏チェロ組曲第一番よりサラバンド

ビゼー:劇付随音楽《アルルの女》第1組曲・第2組曲
(アンコール)
同上よりファランドール

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