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2019年02月08日12:59

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「どこまでがドビュッシー?」(青柳いづみこ著)読了

ピアニストにしてエッセイスト、そして、無類のドビュッシー・マニアである青柳いづみこの連作エッセイ。

その出発点は、著者自身がドビュッシー未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』のコンサート形式での上演。伴奏は著者自身ともうひとりの若いピアニストによる連弾によるもの。

ドビュッシーは、オペラ化に悪戦苦闘し、台本は何度も書き換えられ、最終的に全1幕2場として完成したが、かんじんの作曲はさっぱりはかどらなかった。清書の形でのこされている楽譜は第2場の途中まで、残された多くの断片が、悪戦苦闘のあとを物語っているという。

著者は、その『アッシャー家の崩壊』を博士論文のテーマに取り上げたほどだし、この作品が同時期に進行していたさまざまな作品に影を落としていて、それを知ることによってドビュッシーの聴き方もがらりと変わると確信してきた。ところがポーの恐怖小説の《グロテスクの美》と《印象派》の絵画から連想される《きれい》なドビュッシーとは結びつかないのが一般で、どうにも歯がゆい思いをしてきたという。著者は、東京とパリでその復活公演を実現するが、果たして東京とパリとでは反応がまるで違ったという。

その著者が、パリで開催された「ドビュッシー国際シンポジウム」に参加し、そこで聴いたドビュッシーのスケッチをもとにした補筆作品に対して『これって、ありなの?』と大いに驚いてしまう。

ドビュッシーは、『アッシャー家の崩壊』に限らず、未完の作品が多い。未完の作品だから、当然にそれは補筆など未完の空白を補う必要がある。ところが、ドビュッシーの未完の作品がきわめて多い。中には、計画のみでスケッチはおろか一片の音符も残されていないものさえある。空白が大きいだけに、補筆する作曲家あるいは音楽研究者の恣意が入り込む余地が多いが、あまりに大胆な補遺に驚いてしまう。

そこから、作曲家と演奏家との問題へとテーマが発展していく。ベートーヴェンやリストのように「作曲する演奏家」「演奏する作曲家」の時代から、作曲と演奏は分業し各々が専門化していく。そこから、その間をつなぐ《楽譜》の問題や、バッハなどの繰り返しの装飾、変奏、即興へとテーマが拡がる。いつもながらの著者の切り口の面白さが、連珠のようにつながっていく。

そういう切り口は、やはり著者の好きなグレン・グールドの「作曲家のように活動するピアニスト」だったり、あるいは友人である「作曲家でありピアニストでもある」高橋悠治だったり、小澤征爾と村上春樹の対談だったり、ジャズピアニストの大西順子への「ジャズの即興とは?」という問いかけだったりする。

ショパンは、自作を楽譜どおり弾かなかった。様々な楽譜への細かな書き込みや、教えるたびに食い違う弟子たちへの助言の記録は、《楽譜に忠実》であろうとする現代のピアニストたちを戸惑わせる。ドビュッシーもそういう作曲家で、それはドビュッシーが『定石を意図的に回避した作曲家』であるから『法則は彼の中にあり、テキストどおりに弾かなくてもさして支障がない』からだという。

とりとめのなさが、この連作エッセイの面白さであり、著者の豊富な語り口の真骨頂だと思う。




フォト
どこまでがドビュッシー?
 楽譜の向こう側
 
青柳いづみこ著
岩波書店

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