mixiユーザー(id:26897873)

2018年08月18日10:52

282 view

「素顔の西郷隆盛」(磯田道史 著)読了

著者は、「武士の家計簿」の原作者で歴史学者の磯田道史。現在放映中のNHK大河ドラマ「西郷どん」でも時代考証を担当している。

「武士の…」でも、下級武士の支払い帳(=家計簿)や書簡など、公式な歴史的資料ではなく、市中に埋没伝承されていた私的資料をもとに幕藩体制の統治システムや慣習などをリアルに描いたが、本書でも西郷の身近にいた人々の証言や伝承をもとに西郷の素顔に迫ろうというもの。

西郷という人物は、維新の偉人のなかでも人気が高く、歴史研究の対象というにとどまらず、評伝や小説などが巷にあふれている。にもかかわらず、その人物像や思想行動には多くの謎があって歴史的評価も定まらず、いまだにつかみどころがない不思議な人物である。

本書を読むと、その人気の秘密が何となくわかるような気がする。西郷は、命知らずで名誉や地位も望まず、ひたすらに事の成就に向けて行動した。人情に篤く情にもろい。人前でも構わず涙し、身近の者には何くれと世話を焼き、人脈が厚く広く、人々に信頼されたので交渉説得にはカリスマ的な成果を上げ続けた。

西郷は、その49年の短い生涯のなかで、薩長同盟、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城など維新史に決定的な役割を果たしたが、それ以上に尋常ならざる挫折も繰り返している。その挫折のひとつひとつは、現代の凡人には想像もつかぬ殺伐とした決定的な挫折だが、そこから奇跡の復活を遂げている。しかも、それは周囲の知人友人らの懇請と明瞭な新ミッションがあったからで、そこには復活への野心や復讐の微塵も感じられない。

最大の謎はやはり最期の10年、西南戦争だろう。自らが興した維新体制への反逆であり、自殺的愚行でしかなかった。そんな人物になぜ日本の近代化の緒を開くような維新改革への偉大な貢献があり得たのだろうか。

西郷の謎についての、ヒントは薩摩藩そのものにあったようだ。

当時の薩摩藩は、考えられないほど遅れていたという。その実態は、維新後もさして変わらず人身売買などが四民平等の明治になっても横行していたという。維新前は士分などの身分制度は絶対で、奄美などの島嶼部はさらに激しい搾取が行われ、藩行政の末端での不正は後を絶たなかった。維新後の政権(いわゆる“留守政府”時代)を担った一人として版籍奉還などの改革にも参画したとされる西郷だが、政変で下野して薩摩に帰郷した後も藩下でそうした改革に熱心に取り組んだ様子はない。

薩摩の人材育成と人材登用は、郷氏制のなかで子供の頃から実践力を磨き選抜を進め下級武士の抜擢登用という点で他藩に抜きん出いていたという。しかし、それはあくまでも武士階級内での話であり、藩主・藩政への忠誠は絶対で、留守家老を中心とした官僚制の色彩も濃かった。西南戦争の発端は、そういう体質を色濃く継承した西郷が私財で設立した私学校だった。そこには新時代には無理解で、中央政府への不信をたぎらせる若い旧士分の子弟が集まり西郷を盲目的にあがめ奉っていた。

西郷をすでにコントロールする周囲の上司・友人もない。西郷も自分の実践を奉呈する具体的な理想や目標もない。実現すべき理想の形を具体的に持たなかった西郷は、ついに最後の決定的な自殺へと突き進んだ。周囲に死屍累々の山を築いて…。それが西郷の悲劇だと思う。

西郷人気は、命知らずの胆力と、権勢も名誉も富も欲望も持たなかったそのクリーンで高い倫理感を貫いたことだと思う。実はその裏返しにあったのは、何度も重ねた挫折によって積もり積もった自暴自棄だったといえるのかもしれない。数多い情に訴えるエピソードを知ると、法治よりも人治へと大いにバランスが傾いていて、政策論が不在という西郷の実像が見えてくる。その持ち前の軍事主義的な信条は、ポピュリズムの原型としていつか暴走する運命にあったとさえ思う。この気質・体質は、薩摩閥で占められた陸軍の宿痾となってやがて日本を誤った方向へと牽引していく。政策論を戦わすことなく、政権交代の論理を「正直、公正」とひたすらに政治倫理にすり替え、人格攻撃を愉快がる大衆に媚びる。西郷人気の裏に潜む危うさは、現代の日本にも通ずる。

官位やカネで懐柔もできない。命もいらず…という「始末に困る人」。それが謎の多い西郷の素顔だということだろうか。


フォト

素顔の西郷隆盛
磯田道史
新潮新書
11 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する