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2018年04月20日15:01

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「中東欧音楽の回路」(伊東信宏著)読了

先だって読み終えた「バルトーク」が面白くて、同じ著者のこの本も読んでみようと思って手に取ってみた。本著の方が、近著になるが、これがとても面白くて思わず一気読みしてしまった。

ヨーロッパの正統音楽であるクラシック音楽の深層に潜む民俗的主調、あるいは現代の演奏家たちの系統の源流をたどると、そこにはユダヤやロマ(ジプシー)の豊かな音楽的言語の源泉がある。さらには、ルーマニアのラウタール(楽師)やブルガリアの合唱や踊りなど、ヨーロッパの音楽の地下水脈と原風景をたどるといういわば音楽的旅行記。実に豊かで多彩なエピソードに興味が尽きない。

そこにはとても基本的で新鮮な新たな視点がある。

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宗教音楽や宮廷音楽から市民革命を経て発展してきた正統音楽に対して、民俗音楽というのは、農民に伝承してきた俗謡など社会階級や文化階層の底辺に位置づけられている。民族音楽は狭いローカルコミュニティの辺境の音楽であり、あるいは民俗音楽は古い原始的で遅れた異教徒たちの音楽だから、正統音楽のような普遍性を持っていない。いわゆる世界の共通語としての音楽という称号はヨーロッパ正統音楽にだけ与えられるものだという考え方だ。

ところが、そういう理解に対して、著者は、もうひとつの汎ヨーロッパ的な基盤を成しているのがロマやクレズマーなどの音楽言語だという。つまり、グローバルな基準通貨というのはひとつだけではなく、民族間に流通するもうひとつの「通貨」がある。それがロマやクレズマーの音楽だという。

現に、いくつかの日本の流行歌の一節を聴いたユダヤ系アメリカ人が、ユダヤの音楽そのものだと証言したという。文明開化の明治が導入した洋楽教育に対して、日本の現代人の音楽には、密かに満州を経由してロシア系ユダヤ人が持ち込んだ「通貨」が流通しているというわけだ。

こういう視点は、器楽というものにも新たなスポットライトを当てている。

クラシック音楽の歴史のなかでも「歌」は、長い間、主座を保ってきた。器楽はあくまでも補助であったり聖なる歌と人々とを結ぶ緩衝地帯のようなもの。音楽が市民社会のものとなってオーケストラが発達するのは19世紀以降のこと。民俗音楽研究においても、採譜はもっぱら伝承民謡であって、ロマやクレズマーの音楽隊はむしろ純粋な伝承の原型を歪め混淆させる夾雑物だと見なされてきた。

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けれども、著者は、そうやって軽視されがちだった器楽にも新たな探求の光が当てられるべきだと説く。クレズマーのヴァイオリンやラウタール、ロマのブラスバンドが媒介する音階、音型、拍節などの豊かな音楽言語こそが、ヨーロッパ音楽のもうひとつの共通通貨として普遍性を持っているという。その文化的原風景が二十世紀以降の音楽家や芸術家に大きく影響を与えているというわけだ。

シャガールがくり返し描いてきたヴァイオリン弾き。

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それはロシアや東欧のユダヤ・非ユダヤのコミュニティの原風景そのものだという。実際、村の結婚式や祝典、葬儀などの儀礼に欠かせなかったバンドは、クレズマーやロマが時として混淆していたという。

ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲の最終楽章には、そういうユダヤ音楽が主題として引用されているという。この曲は親友であった音楽研究家ソレルチンスキーの死を悼んで作曲されたもの。ショスタコーヴィチもソレルチンスキーはユダヤ人ではなかったが、ソレルチンスキーはシャガールが生まれたユダヤ居住地区の民俗音楽研究に深く立ち入っていて、ふたりはともにそういう音楽への共感を共有していた。

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確かに、アルゲリッチ、クレーメル、マイスキーの演奏を聴くと、それがユダヤ音楽であることが腑に落ちる。地域こそアルゼンチン、ラトビアと離れていても、それはユダヤ音楽という共通言語なのだ。

20世紀になって続々と偉大な弦楽器奏者を輩出するハンガリーなどの東欧各国。

音楽院における厳しい正統教育を受けた彼らのヴァイオリンには、妖しい悪魔のヴァイオリン奏法が同居していて、その狂気のような技巧と艶めかしい音律に人々は驚喜し陶酔する。ジョルジュ・エネスクは、七歳のときにロマの音楽師から手ほどきを受けたという。エネスクも自ら「私はラウタール(ルーマニアの村の楽師)たちの音楽に多くの者を負っている」と語る。

著者は、コパチンスカヤについてもこんなエピソードを書いている。

コパチンスカヤの父親は旧ソ連時代のモルドヴァ共和国の高名な民俗楽器奏者だった。母親はその夫と共に演奏するヴァイオリン奏者だったという。両親は政治的な理由もあって故国を離れコパチンスカヤはウィーンとベルンの音楽院で正統教育を受ける。教師は「やり過ぎだ」と常に叱責を受け、彼女はそういう教育環境に絶望し鬱屈していた。そこに手を差し伸べたのが、かつて、ハンガリー出身のヴァイオリニスト、シャンドール・ヴェーグの熱烈な支持者だったある紳士。コパチンスカヤは、この紳士のサポートを受けて世に出ることになったという。

著者が、光を当てているのは二十世紀の「前衛」たち。二十世紀作曲家の「前衛」の正体こそ、実は、まさにそういう「もうひとつの共通言語」と分かちがたく結びついている。

ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、ブーレーズらの分析により精緻な数理的リズムの論理があるというとらえ方と、一方で、これはロシア原始の異教徒たちの土俗的で野蛮な習俗に基づく大地の祭典なのだというとらえ方で拮抗していた。しかし、それは実は、ロシアにおける「ヨハネ」祭礼が原風景となっているという。「誘拐(略奪)」は実は日本でいう「通りゃんせ」のような人々の遊戯風景なのだという。しかも驚くことにそれは春ではなく6月の祭礼だというのだ。

同じ作曲家のバレエ・カンタータ「結婚」にも精緻な民俗学的分析がされている。

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それはまさにシャガールが描いたような、ロシア農村の結婚儀礼をかなり忠実に引き直したもの。驚くのは、当初、ストラヴィンスキーは多くの特殊な民族楽器を取り入れた「春の祭典」以上の大編成のオーケストラを予定していたという。それが楽器や演奏者の確保など現実的な障害と、時間に追われ最終的にはピアノ4台と打楽器群という現在の編成にまで純化・抽象化されてしまう。そのことが、以降、オーケストラの「バンド」化が起こる。この曲もクルレンツィスのCDに出会って初めて腑に落ちた。このCDでは、コパンチンスカヤの奔放なチャイコフスキーがカップリングされているが、この意表をついた曲の組み合わせの意図は両者を聴いてみて初めて合点がいく。

ベートーヴェンの第九からベルリオーズの「幻想」、そしてワーグナーまで拡大肥大化の一途をたどったオーケストラも、二十世紀に入って大きな転回点を生む。その転回点は、様々なエキゾチックな楽器を取り込み、随所にバンド(音楽隊)的風景を織り込んだマーラーに始まると思う。それを極めていくのが前衛作曲家たちだったのだ。

ハンガリー出身の作曲家リゲティにも著者はインタビューを試みている。これがとても面白い。

リゲティの曲といえば「2001年宇宙の旅」。あの映画で一躍有名になったのはシュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」だが、ナゾの物体『モノリス』の「レクイエム」などリゲティの曲がいくつも多用された。

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リゲティは、私にとっては、前衛中の前衛。そのリゲティのオペラ「ル・グラン・マカーブル(大いなる死)」が日本で初演されるというので観に出かけたことがあるが、想像を絶するハチャメチャぶりで猥雑なドタバタの舞台が進行し、セリフは字幕が出るのだが正視に耐えない。著者は、この前衛オペラにも考察を加えていて、作曲者自身とのインタビューではこの作曲家が荒唐無稽な「前衛作曲家」というよりは、郷土愛に満ちた土俗的心情の持ち主であることを明らかにしている。

北米のオーケストラの楽団員の多くには19世紀以降に流入した東欧の楽師たちの血脈が脈々と息づいている。そういう輸血が両大戦のユダヤ迫害で加速し、さらに第二次大戦前後からハンガリー系ユダヤ人指揮者が続々と正指揮者に就任することで一気に充実していく。その充実ぶりはアメリカ経済のグローバル化によって一見ユニヴァーサルな音楽言語による新世界の無国籍なモダニズムという外観を持つかもしれないが、よく聴いてみると中欧の伝統オーケストラとはまた別の汎ヨーロッパ的な音楽の本質を持つことに気がついたはずだ。斎藤秀男に標準語的音楽感覚を徹底的にしごかれながらも、どこかに満州国のあの密やかな音楽血流を隠し持っていたに違いない小澤征爾が、アメリカのオーケストラに熱く受け入れられたことはそういうことの証左であったのかもしれない。





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中東欧音楽の回路
 ―ロマ・クレズマー・20世紀の前衛

伊東 信宏 (著)
岩波書店
第31回(2009年) サントリー学芸賞・芸術・文学部門受賞

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