mixiユーザー(id:26897873)

2018年02月19日16:52

283 view

美文字から浮かび上がる詩情 (マルティーノ・ティリモ ピアノリサイタル)

ふとしたことで知ったピアノ・リサイタル。

フォト

マルティーノ・ティリモは、ピアニストとしては決して名の知られた音楽家ではない。キプロス生まれで、英国王立音楽院、ウィーン国立音楽大学で学び、ミュンヘンおよびジュネーブ国際ピアノコンクール優勝とピアニストとしても輝かしいキャリアの持ち主だが、シューベルトの未完成ソナタを補筆完成し、それらはウィーン原典版として出版されるなど音楽研究家としても名高い。

50を超えるCDを発売しているそうだが、シューベルトの全ピアノソナタの録音のほか、モーツァルト、ドビュッシー、ヤナーチェクのピアノ作品全集を録音し、今年にはベートーヴェン全集もリリース予定だという。さながら百科全書ピアニストといった観がある。

「楽興の時」の演奏で始まったリサイタルだが、そのピアニズムは実に理想的で欠もなく余剰もない。美しい楷書に例えたくなるような美しく整ったアーティキュレーションとフレージングで、タッチに乱れも誇張もない。さながら書聖・王羲之の書を観るかのような美文字的ピアノ。

淡々と弾き進む音楽は、地味なようだけれども決して退屈しない。それどころかどんどんとシューベルトの世界に引き込まれていく。名だたるピアニスト達のシューベルトのような文学的思い入れや個性的なフレージング、神経質な転調にともなうテンポの揺らぎ…そういったあらゆるカラレーションとは無縁だし、古典的な様式に無理やりロマン派のピアニズムを持ち込むようなこともない。それでいてシューベルト本来の歌や詩情がすっきりと浮かび上がってくる。

そのことは、続けて演奏されたショパンのバラードやスケルツォでより鮮明にあぶり出されてくる。ショパンはショパンとして実に鮮烈なショパンの詩情があって、そこにシューベルトのピアニズムとは違う音楽のたたずまいがある。バラードは、物語への想像力に富んだ起伏も十分であり、スケルツォには劇的な感情の起伏とロマン派ピアノらしいヴィルティオーゾ的響きがある。

やはり素晴らしかったのが、シューベルトのD.959のソナタ。

最晩年の3つのソナタはいずれもシューベルトの最高傑作ともいうべき作品だが、中でもこのイ長調のソナタはシューベルト本来の明朗さと憧憬のたたずまいが色濃い。ベートーヴェンのオマージュともいうべきソナタは、闊達な導入で始まるけれど、すぐにベートーヴェンとは違ってシューベルト独特の歌謡的な循環に陥っていく。その危うさと清廉さとのバランスがティリモの活字によってきちんと保たれていく。そのことは、あの美しくも哀しい第二楽章のアンダンティーノでも同じ。

小学生の頃、新学年になって与えられた教科書の折り目を整えるのが好きだった。まだ、真新しいインクの臭いが香り立つようなまっさらな教科書に一冊ずつ折り目をつけていく。そうしないと、使い込んでいくうちに綴じ目から割れていってしまう。子供にとっては教科書体の活字が自分の感性の成長への道標だった。教科書は決して味気ない百科全書ではなかった。

ティリモのシューベルトのソナタを聴いていて、突然のように頭に浮かんできたのは、そういう教科書で知った宮沢賢治の『永訣の朝』。


>
今日のうちに
遠くへ行ってしまう私の妹よ
みぞれが降って、表は変に明るいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
( 雨雪  取ってきてちょうだいな )
>


もしかして、この詩を習ったのは小学生ではなくて中学生だったかもしれない。あるいは高校生だったのかもしれない。自分の感性の成長の軌跡はもはや不明だけれど、教科書で知ったことに間違いはない。だって必ず教科書の臭いが連想されるのだから。


>
おまえが食べる雨雪を取ろうとして
私は曲がった鉄砲玉のように
この暗いみぞれの中に飛び出した
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
>


今際の床にある妹がいて、外にはみぞれが降り、しかしなお表は変に明るい。
雷鳴のような激しい楽句は、まさに曲がった鉄砲玉のような悔恨の激情が襲ってきたようだ。この第二楽章が終わると、シューベルトが未完成のソナタに自らが補完の楽章を付け足したような妙に定型的な楽章が続く。それもなぜかシューベルト的で愛おしい。


>
死ぬという今頃になって
私を一生明るくするために
こんなさっぱりした雪の一椀を
おまえは私に頼んだのだ
ありがとう、私の健気な妹よ
私も真っ直ぐに進んでいくから
>


ティリモのシューベルトが素晴らしい。



フォト

マルティーノ・ティリモ ピアノリサイタル
2018年2月13日(火) 19:00
横浜市青葉区 青葉区民文化センター フィリアホール


シューベルト:楽興の時 D.780
ショパン:バラード 第4番 ヘ短調 作品52
      スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31
      
シューベルト:ピアノソナタ第20番 イ長調 D.959

11 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する