4年にわたる東京春祭の「リング」もいよいよ最終年。回を追うごとに尻上がりの充実ぶりで、特に前回「ジークフリート」の熱狂が忘れられず、いやでも期待が高まるばかりだったが、残念ながらそういう感動の大団円とはならなかった。
4夜のなかでもさらに規模の大きい最終夜ということもあろうが、主役ふたりの土壇場での不調と代役が水を差すことになったのは間違いないだろう。会場に流れたアナウンスによれば、来日後のリハーサルに至ってからの体調不良とのことで、それは当該歌手の出来不出来というにとどまらず、オーケストラも含めた全体の仕上がりに少なからず影響があったのではないだろうか。
長大なワーグナー楽劇の立ち上がりというのは得てしてそうなりがちだが、今回はことさらに不調だった。序幕からオーケストラはどこか互いのコミュニケーションにいっぱいいっぱいという感じで、どこかわさわさした感じがあって音楽が落ち着かない。
昨年までは全く気にならなかったヤノフスキのテンポだが、今回は「速い」と感じてしまう。質実剛健な推進力というものが影薄れて、どこかとにかく先へ進もうと急ぐ感じでドラマが置いてけぼりになってしまう。
それが最初に一変したのが、第一幕三場ヴァルトラウテの登場から。
クールマンはさすがの存在感で、その歌唱ばかりか、いささか譜面台を抱えて棒読み状態だった歌手陣に初めて演技らしい演技をもたらした。これでブリュンヒルデのクリスティアーネ・リボールがようやくそれらしくなっただけではなく、テンポはいささかも変わらないのに一本調子でまとまりを欠いていたオーケストラから大きなうねりのような歌とドラマが浮上してきてはっとさせられた。オーケストラピットというのは、ステージ上の歌手の言葉を聞きながら音楽の流れを作っていると、あるヴィオラ奏者が言っていたが、言い換えれば歌手の力量が音楽全体をリードしているということになる。その当然の道理を実感した瞬間だった。
第二幕は、今回の公演の灼熱の地核を成すもので熱いマグマがほとばしるような迫力とスケールの大きさで圧巻だった。N響のホルン陣によるシュティーアホルンのたくましさ、東京オペラシンガーズの快心の大合唱は、熱球を包み込む白熱のマントルを思わせるものだった。
一方、楽劇全体の重心に位置するこの第二幕は、この楽劇の登場人物が負っている情念と運命が不幸で複雑なもつれとねじれの中で巨大な悲喜劇として膨張していく場面でもある。緊急の代演となったアーノルド・ベズイエンは、終始、英雄ジークフリートに不適合だったが、この歌手本来の性格俳優的な持ち味が生かされるたのもこの第二幕だ。凄味を見せたのがハーゲンのアイン・アンガー。鈍重で卑屈でさえあった小ずるいだけの策士が、その心のなかに野心を目覚めさせ、次第に尊大で邪悪な存在へと大きく肥大していく。その声色と演技の変貌ぶりには思わず身震いさせられた。
第三幕は、いよいよブリュンヒルデの聴かせどころ。クリスティアーネ・リボールは、3日前の初日の降板の無念を晴らすべく盛大な声量を振り絞ったものの、ワーグナーやシュトラウス歌劇にありがちな金切り声(“shrieking”)のヒステリックで不機嫌なソプラノから抜けきれなかった。精一杯のリカバリーに対して無慈悲なもの言いかもしれないが、それが正直な感想だ。
ヤルヴィがシェフとなって以来、この1年のN響の進境ぶりを高く評価する向きが多いが私はそうは思わない。確かにホルンを中心とした管楽器群の刷新がもたらしたものは大きいが、それはヤルヴィ以前に起きたこと。その進歩の鮮烈さはむしろ昨年の『ジークフリート』の方がはるかに大きかった。そのホルン群が、第3幕前奏ライン河畔の大事な持ち場で集中を欠いて瑕を作ったのは、他の見せ場で大健闘だっただけに惜しまれる。あらためて日本のオーケストラが世界レベルへと脱皮しきれていないと感じさせたのは、やはり金管群の和声のバランスに厚みを欠いていること。東京文化会館1階席の直截な響きのせいもあるが、テナー、バスのパートにもう一段のレベルアップが望まれる。すでにウィーン・フィルを退役したゲスト・コンサートマスターのライナー・キュッヒルの音が先頭でしばしば浮き立ったのは弦楽器群がスタミナを欠き自発性に不足していた証左。
とはいえ、ジークフリートの殺害からその葬送、ブリュンヒルデの自己犠牲へと連なる最終場面もこれまたエロティックなまでの法悦の陶酔感があって見事。ともあれ、4年にわたる大プロジェクトの終結にふさわしい熱演だったと称えたい。
ワーグナー:舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』第3日《神々の黄昏》
2017年4月4日 東京文化会館 (1階 25列29番)
指揮:マレク・ヤノフスキ
ブリュンヒルデ クリスティアーネ・リボール
ジークフリート アーノルド・ベズイエン
ハーゲン アイン・アンガー
グンター マルクス・アイヒェ
グートルーネ レジーネ・ハングラー
アルベリヒ トマス・コニエチュニー
ヴァルトラウテ エリーザベト・クールマン
管弦楽:NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ (合唱指揮:トーマス・ラング、宮松重紀
ログインしてコメントを確認・投稿する