私たちが東京へ移った前後に、母の弟妹たちは次々と海外へと渡航していきます。しかも、叔父叔母たちは家族ぐるみでの海外でした。
母のすぐ下の弟である叔父、例の最後の海兵卒の叔父のことですが、東北大の金研から茨城県東海村に出来たばかりの原子力研究所(原研)に移籍します。そこからニューヨーク・ロングアイランドにあるブルックヘブン国立研究所に派遣されます。家族帯同での派遣でした。この叔父は、後年、大阪大学基礎工学部教授に転出しますが、とても正義感の強い人で、69年の大学紛争で過激派学生によって学部が封鎖された時、たったひとりで基礎工の門前で全共闘の学生と渡り合っていたことは今でも語り草になっています。
その下の叔父は、慶応大学商学部を卒業、祖父を継いで三井物産に入社、当時はロンドン支店に勤務。一番の下っ端だったので、新婚ほやほやの小澤征爾夫妻のロンドン見物の案内役をやらされたそうです。小澤がどうのというよりも、三井不動産社長として三井グループ総帥の立場にあった江戸英雄の娘だった京子夫人(当時)への気遣いでした。叔父は、帰国して結婚すると再び海外勤務となり、ニューヨークへ家族とともに赴任していきました。
末の妹である叔母は、早稲田大学心理学科を修了、米国のアンナーバーにあるミシガン大学に留学します。そこで出会った同窓同士で意気投合、現地で結婚式を挙げました。北海道大学の教授となった叔父とともに札幌に移住。家裁調査官として少年非行と関わり、自身も大学の教官となってからは発達障害児の療育と母親支援に携わるなど、母親支援の重要さを痛感し、幼児虐待問題でもコンサルとして主に母親の支援を続けてきました。
弟妹たちの家族ぐるみの海外への雄飛を見て、自身は半年の挫折で終わった母の境地はどのようなものだったか。
けれども、東京へ出てきてからの母は、存外、明るく活発でした。
どういう仕事だったのか、今は聞きただす機会が永遠に失われていましたが、NHKラジオの番組を何回か担当していたことがあります。ぼんやりとした記憶では、いわば「暮らしの手帖」的なライフスタイルとか暮らしの知恵のようなものをテーマにした主婦向けの番組のようでした。当時のNHK(日本放送協会・東京放送会館)は、田村町(現・千代田区内幸町)にあった頃で、私も打ち合わせに出向く母に連れられてよく内部をうろうろしていました。自分の声を聴いてイヤになったから、と言っていましたが、長続きしなかったのはやはり女を家に縛り付けたがる父と何かがあったようでした。
読書家だった母が、いつも読んでいたのは「暮らしの手帖」などとともに、週刊誌の「週刊朝日」「朝日ジャーナル」や月刊雑誌「世界」など。今の若いひとにはピンと来ないかもしれませんが、『右手にジャーナル、左手にマガジン』と言われた時代。「ジャーナル」とはもちろん「朝日ジャーナル」のことですが、「マガジン」とはマンガ誌「少年マガジン」のこと。「全共闘世代」と呼ばれ、やや左がかって突っ張っていた団塊世代にはよく読まれた雑誌でした。
当然のことながら、購読紙は「朝日新聞」。私が、大学生になった頃、勝手に日経新聞に切り換えたことがあります。訪ねてきた販売店の担当者に、「事実をねじ曲げ、毛沢東礼賛の偏向記事ばかり書く朝日は読むに堪えない」と追い返したのですが、しばらくするといつの間にかダブル購読になっていました。「だって、両方読めるからいいんじゃない?」と惚けられましたが、朝日の愛読者であることは終生変わりませんでした。
90歳近くになっても、「つくづく戦争はやってはいけない。やっぱり平和憲法でいいんじゃないの」と言うのが口癖だった母ですが、70年安保を境にジャーナリズムの気骨がどんどんと失われ、リベラルが変質していくなかで、母のような戦争体験者の気持ちを代弁する場がどんどんと狭くなってしまいました。母のような世代がいなくなる、その喪失を埋める何かが必要なのではないかと痛いほどに感じるこの頃です。
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