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2016年12月02日01:05

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東大であって東大ではない ――母の思い出(その9)

昭和34年(1959年)、私たち家族は東京へ移ることになります。

父が、設立して間もない東京大学・物性研究所(物性研)教授に招聘されたからです。物性研は、日本学術会議の決議勧告にもとづいて、文部省と科学技術庁(いずれも現・文部科学省)が、東京大学附設の研究所として昭和32年(1957年)に創設したものでした。父の恩師であった茅誠二先生は、当時、東大総長に就任したばかりで、学術会議の会長も務めていました。父は東北大・金属材料研究所への恩義も未練もあったようですが、発足間もない物性研の初代所長も兼ねていた茅東大総長からの懇請とあっては、東大への転籍を決意せざるを得なかったようです。

当時の日本の物性物理の進展の遅れを世界のトップレベルまで引き上げようと、官学をあげて設立されたという経緯もあって、物性研は共同利用・共同研究拠点ということで組織的には東大附設ですが、英文名称はISSP(Institute for Solid State Physics)と名乗り東大の文字がありません。東大であって東大ではない独立色が強い異色の存在だったのです。当時の大学は閉鎖的でしたから、北大出身の父が東大教授となること自体も極めて珍しかったのです。

物性研は、現在は柏キャンパスに移転しましたが、当時は六本木にありました。現在の国立新美術館が建っている場所です。その敷地(東大・六本木キャンパス)は、もともとは歩兵第3連隊の駐屯地跡。第3連隊は、二・二六事件で約1500名の反乱軍の主力として警視庁を占拠した部隊。その連隊兵舎の荘重で立派な建物が、当時の東大・生産技術研究所として使われていて、物性研の建物はその目の前に新築されたいささか愛想のない鉄筋コンクリートのビルでした。それでも当時はまだ珍しかった無人の自動エレベーターがあって、休日に父に連れられて研究室に遊びに行くと、自分でボタンを押すのがうれしくてたまらなかったことを覚えています。

物性研の隣接地、現在、政策研究大学院大学がある場所は、まだ、米軍に接収されたままでスターズ・アンド・ストライプス(Stars and Stripes 星条旗新聞)の社屋があって、時間などお構いなしに盛大な爆音を上げてヘリコプターが離着陸を繰り返していました。日本の物性物理研究を世界レベルに引き上げるといってもそんな程度の環境にあったのです。

私たち家族は、荻窪の沓掛町(現・杉並区清水町3丁目)の妙正寺公園の近くの平屋の官舎に落ち着きました。当時、この辺りは田んぼや畑ばかりで、その宿舎はひどいものでした。私たちは六畳間に机を並べ、父母は四畳半で寝ていましたが隣の汲み取り式便所の灯りが壁の隙間から漏れるような有様。当時の東京は、春先になるとひどい風が吹き、畑や未舗装の道路の砂を巻き上げて空は暗くなり窓を閉めていても砂が畳に積もりました。私は、区立沓掛小学校に通いましたが、ズーズー弁丸出しの私はイジメの格好の標的でケンカばかりしていましたから、荻窪時代によい思い出はありません。

引っ越し好きの母がこのような環境で我慢するはずはなく、荻窪はほんの一年程度で、すぐに目黒区大橋の公務員宿舎に移ります。すぐ近くの東山にある駒沢住宅に移ってからも含めて、以後、私は大学を卒業するまでの東京生活のほとんどをこの界隈で過ごすことになります。近所の区立菅刈小学校に通うようになってからの私はようやく落ち着きが出てきて、それまでオール3だった通信簿にもポツポツと4が増えてきました。けれど高学年になって学級委員を務めるようになっても首席をとるようなことはありませんでした。後年、ふと気がつくとその小学校の50人弱の同じクラスから、当たり前のように東大に進んだ子が4人もいたのです。

向上心旺盛な母は、仙台時代には近所の主婦たちと「読書会」なるものを営んでいました。読書会といっても、要するに共同で本を買ってそれを回し読みするというもの。最後に気に入った人がくじを引いてその本を手に入れるというルールでした。当時は、誰もが活字に飢えていました。そういう母が、一番、活発だったのはこの東京へ出てからの時代です。母は、30歳台半ばとまだ若かったのです。
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