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2016年11月27日18:31

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母の得意は中華料理――母の思い出(その7)

父はアメリカから帰国した際に、様々なアメリカ製品を持ち帰りました。

GE製のTVは14インチほどの小型なもの。当時はTVなど珍しく大相撲の時間ともなると近所中の人々がわが家に集まりました。3年ほどして皇太子成婚の前後から普及が進み仙台でも初の民放が開局されましたが、わが家のTVは周波数帯がアメリカのままで民放の人気番組が映らず、かえって口惜しい思いもしました。

フーバー製の電気掃除機も、長い間、わが家で活躍しました。父はいつもこれを英語の直訳で「真空掃除機」と呼んでいましたが、その吸引力は圧倒的。やや大ぶりで重たくて音も大きいのですが、とても頑丈で故障もほとんどありませんでした。

子供たちにもお土産がありました。兄たちにはレベル (Revell) のプラモデル。クイーンエリザベス号の大きなものや、BOAC(英国海外航空)のDC6など、とても精密なもの。私にはマテル(Mattel)の車のおもちゃ。トレーラー型キャリアカーで、トレーラーや搭載されるミニ乗用車はアルミダイカスト、車載部は厚い鉄板でできていて子供が乗っても平気なほど頑丈でした。マテルが、バービー人形で日本でも名が知られるようになるのはずいぶん後のことです。

この当時、アメリカは偉大でその工業製品は、品質の高さ、剛健さ、という点で圧倒的に国産品を凌駕していました。

その中で一番活躍し、わが家で長く愛用されたものがGEの電気フライパンです。今風に言えばホットプレートというところでしょうか。これでホットケーキからすき焼きまで何でもござれ。火力が強く、鉄板も厚くて熱が均等に行き渡ります。電圧の関係で目盛りを1割増しにするのがコツでしたが、これでカスタードプリンなどの蒸し焼き菓子も上手にできました。

母の得意の餃子も、このフライパンのおかげで実にうまい焼き具合だったのです。

もともと母は、お嬢さん育ちで高学歴、戦中の食料事情の悪い時期でろくな花嫁修行もせずに結婚したために、料理はあまり得意なほうではなかったようです。いわゆるオフクロの味とかいうものはあまり記憶にありません。仙台時代にご近所づきあいで覚えた料理とかそういうものが多かったと思います。そのなかで一番の得意料理は中華でした。

近所に中華料理の先生がいて、ここに熱心に通ったのだそうです。この先生の家は、戦前は中国からの留学生が何人も下宿していて、そういう留学生からレシピを採拾したそうです。仙台は大学町で、中国からの留学生が多かったのです。中国の文豪・魯迅が、ここの医専(現・東北大学医学部)に学んだことは有名。その留学時代のいわゆる「幻燈事件」が、魯迅を医学から作家への道へと転向させることになったことは、小編「藤野先生」に詳しく語られています。

バンコク育ちの母は、もともと中華料理が好物で、それで料理教室には熱心に通い、中華料理がすっかり得意になったというわけです。だから私にとっての家庭料理は、餃子や焼売、酢豚、麻婆豆腐、鍋物、焼きビーフンなど中華料理そのもの。焼き餃子は、今や、むしろ日本人にとっても国民的な料理ですが、私の子供の頃はまだまだ外で食べられるものではなかったのです。

中国の家庭料理(家常料理)が中心でしたが、中には冬瓜蒸しスープなど大がかりで本格的なものもありました。正月のおせち料理も、半分近くは中華料理でした。おかげさまで、後年、会社の仕事で頻繁に中国に出張するようになっても、食事で困ったことはありません。同行者が音を上げるような長期になっても飽きることがなく、毎日、食事が楽しみなほど。冬瓜蒸しスープは、20年ほど前、北京で初めてという触れ込みの本格的広東料理の店で会社の先輩からごちそうになったことがあります。フートンの四合院の邸宅を改装した立派なレストランに連れて行かれ三日前から予約しないと食べられない特別料理だと自慢して「お前は運のよい奴だ」とまで言う先輩に、これは母の得意料理だと話すと、目を白黒させていました。

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