オーケストラとは、管弦楽団のこと。でも、本来はそういう意味ではなかった。
欧米のコンサートホールやオペラハウスに行くといつも戸惑うのが座席の呼称。日本のように1階席、2階席…というように素直に呼んでくれない。座席表をながめると、コンサートホールではステージのことをオーケストラと表示している。

ウィーンの楽友協会大ホールのようにステージに席がある場合、後方奥のオルガン直下の壇上をポディウム席(いわゆるP席)、左右両脇の席をオーケストラ席と呼んでいる。

オペラハウスで言えば、それは文字通りオーケストラピットのこと。
“オーケストラ”とは、本来はそういう劇場の場所のことを指す言葉だという。
その起源は、遠く古代ギリシアの円形劇場にまでさかのぼる。そこでは、中央の円形の部分、舞台と観客席との間が“オルケストラ”と呼ばれていた。舞台には俳優が登場し、観客との間の前面は踊ったり音楽が奏でられる場所で、やがてそこには合唱隊(=“コロス”)が陣取った。古代ローマになって、舞台と客席が厳然と分けられる構造になって、それは客席最前面の貴人のための特別席が設けられ一般席とは区分された。つまり、“オーケストラ”とは、「踊る場所」→合唱隊席(ギリシア)→貴賓席(ローマ)→楽団席→管弦楽団、というふうに転化してきた。オーケストラとは言い換えるならば、「舞台」と「客席」とを隔てる分離帯であり両者をつなぐ接合地帯のようなもの。
だからオーケストラは、常に、聖俗、階級のボーダーゾーンのことで、支配・被支配の狭間にあってその力関係を反映するかのように発展してきた。
長いヨーロッパ中世時代にあって、教会では吟誦や合唱が聖なる音楽であって器楽はせいぜいその補助に留まった。やがてルネサンスを迎えギリシャ・ローマ文化の復興により、音楽劇が盛んとなり器楽が発達し、宗教音楽でも役割が増大する。やがて王権の拡大とともにそれは宮廷音楽として王族や貴族の社交の主役にまで踊り出る。歌劇場では、オーケストラは文字通り、舞台と客席との間の暗渠のようなピットにあって客席の視界からは半ば隠されている。それが、ステージ上に登るようになるのは市民革命の時代を迎えたからだ。
近代オーケストラの形が定まり、今のような姿へと発展した過程の中心にいたのがベートーヴェン。
彼の交響曲は宮廷や王立の歌劇場を離れ市民劇場で一般市民のために公開される形で上演され、市民階級の圧倒的な支持を得た。世界最古のオーケストラと言われるのは、1743年に市民による自主運営オーケストラとして設立されたゲヴァントハウス管弦楽団。ウィーン・フィルが成立するのは19世紀半ばとずっと遅れたのは、ウィーンがハプスブルク王家のお膝元であり王立歌劇場のくびきからなかなか逃れられなかったからだ。コンサートホールでは、管弦楽団が堂々とステージ上に展開し、客席から見られる主役となる。もはや、ピット内や教会のバルコニー奥に押し込められた日陰者のような存在ではなくなった。
筆者は、ドイツ文学、ヨーロッパ文明史の専門家。
その意味で、西洋音楽の歴史の表面(おもてめん)をたどった正史として本書はとても面白い。反面、ようやく近代オーケストラが成立した後の近現代音楽における現代史の詳細はいささか駆け足で物足りない。北米のオーケストラの発展についても触れられず、今や世界に冠たるオーケストラ大国となった日本のオーケストラの歴史も、その今日的な批評もほとんど語られることがない。そこに若干の不満を残すところがあるかもしれない。
とはいえ、オーケストラが劇場のなかでステージと客席の間に存在したというポジショニングの視点は新鮮だった。確かにそういうことだったのだと合点がいく。
本書からは離れるが、オペラの演奏会形式の上演ということも、つまりはそういうことだったのだと思い当たる。
演奏会形式というのは、もちろん、オーケストラの主催でありオーケストラが主役だ。オペラにおける演劇や歌手たちとの立場が逆転する。歌劇場のオーケストラとは違って、そこではオーケストラを聴いて楽しみ、そして、見ても楽しむという愉楽が中心となる。


そのことは、先年、ブタペストの祝祭管弦楽団による「魔笛」の上演でも鮮やかだった。歌手たちは自由にコンサートホール内を立ち回るが、常に中心にあるのはオーケストラ。最初は客席の前列を潰して歌劇場のピットを模して舞台下で演奏していたオーケストラが、最後にはステージ上に移動してしまうというトリックで驚かされた。

あるいは、今年のスカラ座での「オルフェオとエウリディーチェ」では、終始、オーケストラは壇上にあって、しかも、セリによって上下し劇の進行とともにポジションが変化する。時には歌手と同じ立ち位置で演技に絡む。スカラ座という歌劇の殿堂でもオーケストラが歌手と同等にまで格上げされて見るものの感覚を楽しませてくれる。
私事になるが、今年の東京春音楽祭でのワーグナー「ローエングリン」には足を運ばなかった。ヤノフスキーによる「指環」は、毎年楽しみにして上野に出かけていたが、今年はまったく気持ちが向かなかった。それは、歌劇場の手堅い職人というだけであって、シンフォニックオーケストラの指揮者としては凡庸に過ぎるシルマーにわくわくするような期待感が持てなかったから。
ワーグナーの《演奏会形式》に期待するのは、シンフォニック・ワーグナーなのだと思う。単なるコストカット公演ということではない。もちろん歌手にも期待するし、その演技力も垣間見たいという気もある。けれども主役はあくまでもオーケストラだ。歌劇場のピットではなかなかワーグナーの大編成管弦楽の醍醐味は味わえない。ワーグナーの魅力の半分近くはオーケストラだ。劇や歌手との本末を転倒させてでも聴いてみたい、見てみたいのがワーグナーの管弦楽なのだ。そのことは同じN響の演奏会形式であっても、ロリン・マゼールの「ワルキューレ」やデュトワの「青ひげ公の城」を聴いていればわかると思う。私は、ヤノフスキーが戻ってくるまでは、もう上野のワーグナーに行くつもりはない。

オーケストラの文明史 ヨーロッパ三千年の夢
小宮正安著
春秋社
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