ポゴレリッチを水戸で聴きました。
ポゴレリッチは、その特異な演奏スタイルやショパン国際コンクールのエピソードなどでとかくスキャンダラスなピアニストとされているようですが、私はそういう怖いもの見たさでこのチケットを買ったわけでもなく、いちどはぜひ実演を聴いてみたいピアニストのひとりだと思っていただけなのです。
特にその「スカルラッティ集」のCDは、愛聴盤のひとつで、凛とした、響きが真っ直ぐに立ったような音楽がとても気に入っています。凛とした空気感のなかで、ひとつひとつの打音が際立っていて明快。ピアノの周囲は漆黒の闇で、そこから明晰な音が浮かび上がり、その音のなかにも細やかな陰影を感じさせます。いかにもピアノらしい、とびきりの美音でもあってオーディオ的にも「課題ソフト」のような使い方もしてきました。むしろリファランスのようなものであって、「特異」とか「ユニーク」なピアニストだとはこれっぽっちも思ったことがありません。そういうピアニストの実像を確かめてみたい…そういう一心で買い求めたチケットでした。
ところがコンサートが近づくにつれて、いろいろなことが耳に入ってきてしまいます。CDはまだまだまともだった時代のもので、復帰してからはレコーディングを拒否していて、その遅いテンポがさらに異様なまでに極端になっているなど音楽的なことばかりではなく、ある種の奇行のようなこと。コンサート開演直前までステージ上でずっとピアノの試奏のようなことをしている…というのもそのひとつです。
実際に、早めに到着した私たちが開場間もない会場に入ると、その噂どおりのことを目撃します。いつもより照明を落とした会場でステージ上のピアノにフードを被ったジャージ姿の背の高い男がポツン、ポツンと和声を弾いている。それがポゴレリッチ本人であることはすぐにわかりました。足元には紙コップがあり、譜面台には譜面らしき紙が置いてあって、そこには確かめるべき和音のコードとかが書いてあるようです。これは、調律とか指鳴らしというよりは、習慣的な前儀式のようなものに違いないとは思うのですが、本人にとっては和声感覚を整えるとか、指の触感を確かめるとかいった、確固としたメソッドなのかもしれない…そう思ってしまうような生真面目さがあります。そういう予備知識も関心もなくおしゃべりに興ずる人と、厳粛な瞑想の儀式を見るかのように姿勢を正して静かに聴き入っている人とに極端に分かれていて、会場には早くも異様な雰囲気が漂っています。
開演の10分前までそうしていたポゴレリッチが、それとは対照的なきっちりとした正装に身を包んで登場したのでまたちょっとびっくり。譜めくりの女性を従え、脇にはピアノ譜を抱えていて、演奏は譜を見ながらの演奏。何から何まで意外なリサイタル。
最初は、ショパンの2番目の「バラード」。
この曲は、ショパンらしくない「乱暴」な曲。作曲者自身による明確な記述はありませんが、同郷の詩人ミツキェヴィッチの叙事的詩文との直接的な結びつきがあると語られてきました。牧歌的で平凡な生活に降りかかる突然で理不尽な「暴力」。そういう譚詩が語る物語の世界。最初の美しく平穏な和声の進行と、突然の暴力の部分とのコントラストをことさらに強調するポゴレリッチ。“Andantino”はより遅く、“Presto con fuoco”はより激しく。テンポだけではなく、鍵盤の叩きかたそのものも、強烈なコントラスト。その対立が、曲が進行するにつれ、異様なまでに拡大していきます。
二曲目は、「スケルツォ第3番」。
「スケルツォ」とは、本来は《陽気でおどけた感じの冗談混じりの曲》という意味合いを持っていたそうですが、それをソナタや古典交響曲のメヌエットなど優雅な舞曲の楽章に置き換えてより深刻な様式に一変させていったのはベートーヴェンですが、ショパンのこの曲に対しても、シューマンが、「ショパンのスケルツォはとても冗談とは呼べない。」と評したと伝えられます。
ここに至ると、お嬢様の習い事のショパンとははるかにかけ離れた演奏になってきます。本来、ショパンとはそういう狂気とか激昂のロマン主義こそ本質であったと気づかせるような演奏です。「バラード第2番」が持っていた日常に襲いかかる不条理というストーリーとか文学趣味的な解釈すらもどこか遠くへと吹き飛んでしまって、激しい感情の起伏と矛盾がぶつかり合うような強烈な音楽。
短い拍手とそれへの答礼でしばし遮断はされたものの、そのまま次のシューマンへと雪崩れ込んでいきます。
そのシューマンがあまりに激しく、連打される左の打鍵が粗暴であって、フルパワー全開の連続であるがゆえにかえって単調で、耳が痛くなる一方でどうしようもない眠気に襲われたのは自分でも意外でした。このシューマンは、シューマンとしては受け入れ難いもので、休憩時間はそういう混乱を鎮めるためにしばし外に出て夜の冷気にあたっていたほどです。
ポゴレリッチとは何なのか、この日のプログラム・ビルディングにはどのような《意図》が隠されているのか。そういうことに自問自答しても、なかなかその答えが見えてこずに二、三日悶々としていましたが、ようやくおぼろげながらそれらしきものが見えてきました。
ポゴレリッチの音楽とは、《分断》の音楽なのではないか。
「分裂症」という言葉は、いまでは「統合失調症」というように言い換えられていますが、この演奏を聴くとある種の精神病理的な認知の特異性を感ぜずにはいられません。「統合失調症」と言われるものには「陽性」と「陰性」に症状とか気質傾向の現れ方が二分されるのだそうです。「陽性」は、幻覚・妄想など「無いものが見える」、「陰性」は、無関心・感情麻痺・閉塞など「有るものが見えない」ということなのだとか。いわば《木を見て森を見ない》というように、部分が気になって全体像が見えないということは私たちの感覚や性癖にもあることですが、ポゴレリッチの音楽は、それが極端なまでに明らかで、曲の全体像が不在なのです。そう思うと、この日のプログラムはそういう音楽ばかりが集められていたことに気がつきます。あの受け入れ難いシューマンでの左手の激しい打鍵の連続は、ウィーン革命の騒然たる激情の衝突なのか、あるいは、、そのままライン河に身投げしてしまってもおかしくないような《狂気》の衝動の連続だったのでしょう。
ポゴレリッチの得手とするもの、共感を覚える音楽はそういう音楽であって、そういう様式の特質を異様なまでに徹底的に突き詰めてしまうような《分断化》《断片化》の追究です。
そう考えると、プログラム後半での演奏がより見えてくるのです。
モーツァルトの「幻想曲」は、いかにもモーツァルトらしくない曲。そもそもがハ短調という重く暗い曲想で始まり、ファンタジーという無形式の音楽は千変万化、テンポも頻繁に入れ替わり、転調も多くて、脈絡としてとらえるのが難しい。ポゴレリッチは、そういうモーツァルトをさらに《分断》し、ひとつひとつの《断片》に分解し、解剖学的な末梢にこだわっていきます。しかし、それが決して作曲者の意図に反しているわけではないのです。モーツァルトでさえ持つ、こういうセグメント化の本質を究めようとして、より強調している。最初の“Adagio”の部分が“Allegro”に変わるところでの異様なほどの長い休止。ところがそこにはモーツァルト自身が確かにフェルマータ休止を記しているのです。その休止長さの恣意性は当然演奏者の感覚に委ねられますが、ポゴレリッチはそれを極大化させているのです。
最後の上行スケールでの終始までの4小節は異様なまでに遅くなる極端なリタルダンド。聴き覚えのない不協和音の響きにはっとしてスコアに目を落とすと何と3小節前の左手の変イ音が最後の上行スケールと干渉しているのです。モーツァルト時代の楽器との違いもあるでしょうが、ポゴレリッチの低弦の響きの持続の長さは常軌を逸しています。ハ短調に回帰するまでのたった4小節の経過的フレーズがさらにその中で四分五裂に分断され、矛盾と干渉を起こしてしまっているのです。
もうひとつは、ポゴレリッチのテクスチュアへの偏執。
モーツァルトには、いかにもモーツァルトらしい触感の面白さがあります。その最初が、Adagioの部分の右手で十六分音符で和音を連打させるところ。ポゴレリッチは、そのテクスチュアの変化を際立たせるように、ここでもテンポをわずかに速めています。そういうテクスチュアやタッチを強調するためのテンポの副次的な揺らぎ、細かな切り替えが頻繁に現れる。切り分けられる《断片》は驚くほど細かく、そして、精緻です。
青柳いづみこさんの著書に「ピアニストは指先で考える」という大変面白いエッセイがあります。青柳さんは、音楽あるいは演奏者に潜む「身体的」側面を語って当意即妙なピアニストですが、この本はそういうなかでも傑作。まずは、「曲げた指 のばした指」という、いわば基本奏法上の二大政党論からはじまる。そこから、「右手の中指」「左手の親指」「指の第一関節」「手首」「肘」…、「椅子」「ダブルアクション」「ペダル」などなど広範囲に展開していき、徹底的にフィジカルなものにこだわって語っています。
この日の私たちの席は、中央ブロック左寄りの特等席で、鍵盤もよく見えましたが、ポゴレリッチは一目瞭然の『曲げた指』で、しかも、『指の第一関節』がものの見事に直角に曲がっています。ここから繰り出される音は、左手の激しい打鍵も含めて直截なノン・レガートであって、しかも、タッチや巧みなペダル操作から繰り出す長い長いレゾナンスが響き続けるという驚異的なピアニズム。
ピアノというのは、楽譜の音符を見ただけでは、なかなか音が想像しにくい楽器です。音符の示す音価ばかりではなく、ペダル記号やスラーのつき方を仔細に見ていかないと指の動きや、その出音がわかりません。もちろん、木管楽器でもアルペジオの頭をうまく響かせると、旋律がつながって聞こえて、旋律と伴奏の二重奏のように聴かせるテクニックはありますが、ピアノのテクニックが織り出す多彩さはまったく別次元です。ピアノ楽譜はいわば専門家にしかわからない細かいプログラムコードのようなもの。ポゴレリッチは、安易なピアニズムの基本技法を無視して、そういうコーディングのひとつひとつを分解してしまおうとしているかのようなのです。
その極めつけが、最後のラフマニノフでした。
私は、コンサートにしばしばスコアを持ち込みます。コンサートの席で楽譜を広げるのは行儀の悪いことなのか、周囲が迷惑と感じるのかどうかはわかりませんが、少なくとも音をたてるなど迷惑にはならないように心がけています。とはいえ、ピアノ譜にはなかなかミニチュアスコアが無いので、さすがに演奏者用の大きな楽譜は持ち込みません。
この日のラフマニノフのように入手が難しいものは、最近は、ネットで無料でダウンロードできるので便利です。けれどもiPadはバックライトが光るので演奏会で聴きながらというわけにはいきません。この日は、休憩時にお隣のGRFさんにiPadの画面をお見せしながらラフマニノフの楽譜がいかに音符が多くて複雑で、見ただけでは到底どんな音が出てくるのか即座には想像がつかないという話しをしていたら、たちまち係員が寄ってきて声をかけてきました。演奏中はスイッチオフにしてくれとか、写真は撮るなとか言うつもりだったのでしょう。
そのラフマニノフは、実に奇怪でしたが、それと同時に実に魅力的でした。
まるで、ホロヴィッツの妙技をスローモーションとか分解写真で見せるかのように弾くのです。もちろんテンポは恐ろしく速いところはそのままのスピードです。それでも、分解写真のように分析的に聞こえてくるのです。あのゴージャスな響きの部分も、実はこうやって弾いているのだよと言わんばかり。ディテールのためには極端なまでにテンポを落としますが、タッチの均衡もロングトーンもいっさい損なわれないのは驚異。ホロヴィッツを写真判定にかけて指のごまかしを暴いているかのようでもあり、あるいは、メーキング・ラフマニノフのようなドキュメンタリーを見せているとでも言うべき音楽。そこには、また、ラフマニノフを聴く陶酔の別位相が見えてきます。
そういうことが、一番、素直に感じたのは、アンコールのシベリウスの「悲しきワルツ」。
シベリウス自身が、ピアノ用に編曲したもの。シベリウスのこの曲は、非常にシンプルなオーケストレーションになっていますが、ピアノに置き換える際にはそれをさらにシンプルなものにしたのだと思うのです。そういうオーケストラの骨格とか神経系統を透視図のように描いていくポゴレリッチのピアノには凄みさえあります。出だしの第一ヴァイオリンとチェロがオクターブで重ねて出てくる旋律の響きテクスチュアを見事にタッチだけで再現しています。もともと死の影が色濃く漂う極端に遅いテンポのワルツですが、ポゴレリッチは三拍のリズムに微妙な重心のずらしを加えながら、さらにテンポを落とし、静謐であって同時に何とも濃厚な音楽でした。
演奏会が終わった後、マイミクさんが大集合。皆さんと大洗の秘密のお店に案内いただいてアンコウ鍋をいただきました。
アンコウの身が盛りだくさんの大皿には、キモ、卵巣、エラ、胃袋、トモ(尾)、ぷりぷりの皮、柳肉(身の部分)まで七つあるそうで、それぞれ違った食感と濃厚な旨味を楽しむわけです。味噌仕立ての鍋で煮込まれる中味は実に雑多で、それを見てももとの姿はわからないはずですが、私の頭にはあの異形の魚が鈎で吊されてばらばらに切り分けられていく映像が確かに浮かんできます。
皆さんで例によってウンチク話に花が咲きましたが、「もういちどポゴレリッチを聴きたいと思うか?」という問いには、皆さん微妙な顔つきでした。一方で、あんこう鍋のほうはとても美味で、これは来年の同じような時期にぜひまたありつきたいと思いました。
イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル
2016年12月17日(土)
茨城県水戸市 水戸芸術館
ショパン:バラード 第2番 ヘ長調 作品38
ショパン:スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39
シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化 作品26
モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K.475
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品36(1931年改訂版)
(アンコール)
シベリウス:「悲しきワルツ」(ピアノ編曲版)
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