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2016年11月17日00:42

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父の首を絞めた母――母の思い出(その2)

昭和20年(1945年)7月半ばに父母は仙台に移ります。鉄道は通じていたものの客車は溢れんばかりの満員で窓から片足をねじ込むように入り込もうとする人と、そうさせまいと窓を必死に押さえる人との争いで騒然としていました。母たちは何とか車内に入り込んだもののずっと通路に立ったままで身動きもできません。汽車は焼け野原の上野駅を出発すると、焼け跡の町を通り抜け、黒焦げの野原を進み、数時間かけてやっと仙台駅にたどり着きます。その仙台も7月10日に空襲を受けて町は瓦礫の山と化していました。仙台城(青葉城)の江戸時代からの遺構であった大手門、脇櫓(当時国宝)などが全て焼失したのもこの時でした。

仙台は、米も魚も野菜も豊かで食べ物には困らなかったそうです。しかし、それは着物を切り売りしての生活です。母親が持たせてくれた着物は、都会の着物は派手だと厭がられ「布団にしかならねぇ」と買いたたかれる有様。

終戦の年の夏は、たいへんに寒かったそうです。夏なのに毛糸のセーターを重ねて着てぶるぶると震えていたそうです。東北地方に特有の「やませ」です。母は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」を思い出して、ああ、あの《寒さの夏》とはこのことだったのかと思ったのだそうです。当時、宮城県と神奈川県は米と小麦の交換融通の協約を取り交わしていましたが、宮城県は米を供出したものの、翌年、神奈川県の小麦が凶作で見返りの小麦は届かなかったのです。終戦を境に、仙台は一転してたいへんな食糧不足に陥ります。終戦の翌年に生まれた長兄は体重が増えずやせ細るばかり。幸い近所に乳の張った女性がいて、そのもらい乳でかろうじて危機を脱したとのこと。

そういう日々のなかで、父は大学院の修士課程を修了し、助手として任官することが決まります。特別研究生としての手当は打ち切られますが、これで正式に給与が支払われると母は安堵したそうです。

ところが、給与を心待ちにしていた母ですが、父はその給料を一向に持って帰りません。業を煮やした母は父に詰め寄ります。「給料が入らないなんてなにかの間違いじゃないの?先生に聞いてみてよ。」ところが学者気質の父は「ボクはそんなこと聞けないよ。」と愚図るばかり。何もしようとしません。

着物もついに売り尽くし、いよいよ窮まった母は、父の胸ぐらをつかみ「いったい私たち親子三人はどうやって生きてゆくのよ!?」と両手で父の首を締め上げたのだそうです。この剣幕にさすがの父もやむなく主任教授にその旨を申し出てみたのです。そうすると何と呆れたことにその教授も、送り出した大学院の教授も、互いに互いが相手側が手続きを取るものと思い込んでいて何の手続きも取られていなかったことが判明しました。

というわけで正式な任官は三ヶ月遅れて7月1日となり、三ヶ月分の給料は、この事態に驚いた、あの文化勲章受章者の本多光太郎所長が、自らの研究費から捻出して手渡されたのでした。
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