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2015年05月12日22:52

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團菊祭五月大歌舞伎

6年のベトナム勤務を勤め上げて4月末に帰任したばかりの息子夫婦が連休中に帰省。一家四人で久々に歌舞伎座へ観劇に繰り出した。

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新しくなった歌舞伎座は、これで3度目ぐらいだろうか。地階の土産物屋のスペースが出来て地下鉄からのアクセスも気持ちよくなって、ここで人溜まりを引き受けてくれるので、劇場の入口は以前と変わらぬようでいて整理がよい。客席も一見、以前と同じように思えるがずっと座りがよくなり、特に今回は2階席だったので一層そう感じた。オペラグラスを携えての観劇だけれど、以前の2階席よりずっと眺めがよい気がする。

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少し寂しい気がするのは、周囲の食事処。幕間に外に出て食事の慌ただしさを楽しむ店が減った。反面、劇場内の食堂は充実した。今回は、開幕寸前に女房殿が予約してくれて、弁当をとった。家族四人だけにこちらのほうが楽しい。まさに幕の内とはこのことだろう。

さて、昼の部は、「合邦」と「天一坊」。

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菊之助の玉手御前は、形はよいが何となく内容が薄い。合邦道心の歌六とその女房おとくの東蔵が娘の邪恋を嘆く庵で説明がつくのだけれど、観ているほうには肝心の菊之助がその張本人と気づくのに手間がかかる。邪恋とはいえ一途に義子の俊徳丸を慕う生娘ぶり、その俊徳丸の許嫁である浅香姫への嫉妬のあまりに乱行する悪女ぶり、最後に一転して実は子を思うばかりに案じた計略であったことを吐露する貞淑な継母と、そういう女の不条理な色気と変化に乏しい。色気の乏しさは、菊之助ばかりではなく、俊徳丸の梅枝や浅香姫の右近が、ともに役者として若くて物足りなかったせいもあるのだろう。

おそらく菊之助が重きを置いたのが、父合邦に腹を切られてからの最後の場面なのだろう。ここが一番魅せた。そういう真情から遡って劇として一貫させようという近代感覚がかえって劇をわかりにくくさせてしまったのかもしれない。

それにしても、物語の原型はあざとい。美少年に対する継母の邪恋、それを拒んでいわれなき責め苦に苛まれ毒まで盛られて醜貌へと一変する息子という筋立ては、江戸時代に人気を博した大衆娯楽の語り物だそうだが、そのあざとさにかえって江戸や明治の日本の庶民文化の深みを感じてしまった。


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菊之助は、次の「天一坊」でも、そういう単調さが出てしまう。序幕お三婆の内では、お三の萬次郎がいい味を出していたが、ふと魔が差して悪心を帯びる瞬間が菊之助の法沢に訪れない。これが結局、その後の幕でも尾を引いて、常人と悪との間にある敷居をまたぐような邪悪さが不足するのだ。いったん虚偽の道に踏み入れた以上は白をも黒と言い切るというふてぶてしさは、むしろ、僧天忠の團蔵が演じきっていて魅力的。

三幕から登場する大岡越前の菊五郎の貫禄は、いわば約束事。そのことがかえって白装束の切迫感を薄めてしまったかもしれない。大詰での越前裁きは観ていて痛快だが、どうせならもっとあくどくやってほしかった。そういう風に思ってしまうのは、三幕目の奉行屋敷での海老蔵演ずる山内伊賀亮との掛け合いに今ひとつ丁々発止の高揚感がなかったせいかもしれない。本心を言えば、当代きっての人気者の海老蔵のかっこよさを観たかったのだが、かみ合いが悪くて退屈した。大詰の菊五郎の大岡越前守は、そういう憂さを晴らすには十分で楽しめたが、その場面には海老蔵がもういない。

海老蔵は、主役となるととても立つ役者だが、脇役となると目立ちすぎたり連携がぎこちなかったりするのだそうだ。歌舞伎通のうちのカミさんによると、歌舞伎には舞台全体を監督する演出家とかオーケストラの指揮者のようなひとが存在するわけではない。だから全ての芸はそれぞれの芸人が磨くもの。役の解釈や所作の細部は、先代から継承しながらも自らが工夫を重ねる。もちろん約束事のようなものはあるからすぐに合わせることができる。それが歌舞伎というものだそうだ。

だから、歌舞伎のアンサンブルというものは、役者の経験の深さのようなものから生まれるらしい。演ずる役柄は、その役者の成長と経験のなかで転々とまわっていく。立ち役から女形へと立場を替えることも日常茶飯事。何年か後の次の公演では、相手役を演じているということもあるわけだ。相手を知り尽くしてこそのアンサンブルなのだ。そこが歌舞伎の醍醐味かもしれない。

この歳になってようやく歌舞伎のいろいろな面白さが少しずつわかってきたような気がする。息子たちも喜んでいて一家で楽しいひとときでした。

それにしてもうちのカミさんは歌舞伎のことよく知っているなぁ。ミーハー・ネタが多いけど。

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