板橋の東は、北区滝野川、さらに東に行くと西ヶ原の町になります。
この一帯は、巣鴨や駒込の続きで山の手という風情がたっぷりの落ち着いた住宅街です。桜のソメイヨシノで有名な染井もすぐそばです。
ここには、かつて東京外国語大学(東京外大)がありました。日本で最初の官立の外国語学校です。現在の東京外語大になるまでの経緯はちょっとややこしいのですが、元をただせば東大や一橋大とは同じルーツだということになります。
今は府中の方に移転してしまって、その跡地は大きな公園となって残っていますが、かつてここに外大があったという手がかりはまったくありません。
ちょっと寂しい気もしますが、そういう素っ気なさは、やはり、大学の設立の経緯が複雑で、その所在も、関東大震災やその後の神田火災などで仮校舎のような形で転々としたことがあるのだと思います。その跡地は、今の共立女子大であったり、あるいは、気象庁、毎日新聞社だったりで、ルーツをともにする一橋大の如水会館の横に「東京外語学校発祥の地」の碑ががひっそりと建てられています。
実際のところ、この西ヶ原の旧キャンパスも、戦時中に海軍の爆薬工場の跡に木造校舎を建てて移転したのが始まりだとか。私の記憶でも手狭な土地に建物が密集していたような気がします。日本の語学教育のメッカという権威を感じさせるものはなかったのです。
古河庭園は都の管理ですから、もちろん、門は堅く閉じられています。何とも悲しい限りです。
古川庭園から田端駅へと向かいます。
この一帯はかつて名だたる芸術家、文士たちが集まり住んだ町です。
駅前には田端文士村記念館が建っています。もちろん今の状況で玄関の扉はきっちりと閉じられイベント中止の張り紙があちこちに貼ってあるだけ。
上野に東京美術学校(現・東京芸大)が開校し、次第に若い芸術家たちが住み着いたのがきっかけで明治期には、すっかり、《芸術家村》になっていました。大正期に入ると芥川龍之介、そして室生犀星が転居してきます。この二人を中心に、萩原朔太郎、菊池寛、堀辰雄、佐多稲子らも移り住み、昭和初期には《文士村》の景観を示すのです。
けれども、今は、ごく平凡な東京の古い住宅地ということでしかありません。それらしいものは、密集した住宅の路地に建てられた芥川龍之介の旧居があったことを示す標識のみ。
この辺りは、高低差が激しくて、田端駅の周囲も実に複雑な地形です。
この切り通しは山の手線開通のために切り開かれたそうです。積み上げた石垣は見事といえば見事ですが、いかにも明治時代の荒療治といった感じがする土木工事です。
その高台の坂を少し下ったところのお寺には、正岡子規のお墓があります。
子規は、根津で病没していますが、生前「静かな寺に葬ってほしい」と言っていて、この寺が選ばれて葬られました。
石碑のレリーフは、子規の時世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」にちなんだもの。命日は「糸瓜忌」と呼ばれて多くの人々がここにも参集するのだとか。
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