巨匠アラウ晩年の至芸ともいうべきベートーヴェン『皇帝』。
ここのところシステムが満足のいくサウンドに仕上がり、しかも、とても安定しているのですっかり鑑賞モードになっている。そのなかで聴いたアラウの最後の録音となったフィリップスのデジタル初期の録音にはまっている。
アラウのベートーヴェンはどれもよい。
ピアノソナタの数々もグリューミオのヴァイオリンのオブリガート付きのソナタも、どんなドイツ人のベートーヴェンよりもドイツ的だ。堂々とした風格と、ゆるぎのない深い精神性に溢れていてベートーヴェンの作品造形を見事なまでに体現している。この『皇帝』などは冒頭のトゥッティに間髪を入れずに登場するカデンツァを聴いただけで、この楽曲の全体構想とその精神性をたちまちにして明示し、威風堂々たる前口上となっている。
しかも、屈託のない演奏解釈と誠実味のあふれる技巧で聴き飽きがしない。その音色は、確かなタッチに支えられながらも硬質なものとはならずに、木質でしかも漆塗りのような深みのある光沢に艶を感じさせる。グリューミオの優美さが、ベートーヴェンの堅固な構成美、剛直な精神性と矛盾なく共存できるのも、そういうアラウとの協演だからこそだと思う。
それにしても、このコリン・デイビス、ドレスデンとの『皇帝』は、ほんとうに素晴らしい。
いかにもベートーヴェンの大家と呼ばれるにふさわしい、ゆったりとしたテンポで、余裕に満ちている。晩年の円熟味が行き渡り、冴えた技巧や華麗なタッチもないが、巧まざる音色美は比類がない。ほとんど何も特別なことはしていない。あらゆる面で、このベートーヴェンの傑作をありのままに描いていて、それが堂々たる風格で鳴り響き、聴いている私の心を捉えて放さない。
素晴らしいのがシュターツカペレ・ドレスデンの見事なサポート。
その重厚な力強さ、吹き上がるようなエネルギッシュさがあって、なおビロードのような深みのある肌触りの弦楽器群、奥深い味わいに満ちた木管楽器群、威風堂々たる金管楽器とティンパニ。どれもがほんとうにドイツ的。そのドレスデンの美質がここでは隅々から聞こえてくるのは指揮者のコリン・デイビスの巧まざる功績だと思う。ともすれば指揮者というのは自分の色を出したがるが、デイビスの指揮にはそれがない。全身全霊で、アラウへの敬愛と奉仕を示し、オーケストラもそれに付き従う。言ってみれば字画の枡目だけを示し、運筆や細かな意匠はすべてオーケストラの自発性に任せている。オーケストラは、その枡目がしっかりしているからこそ自由闊達に烈々たる熱い思いでその音楽性を発揮できるのだ。
聴き始めて、その録音の優秀さに心から感動が拡がる。
フィリップスは、さすがにCDのオリジネーターだけあってデジタル録音への適応が早かったと思う。CD初期のオーケストラの録音で他レーベルを頭一つ抜いていたと思う。しかもこの録音は、シャルプラッテンとの共同制作だという。そのことが、録音会場でのセッティングなど大きなプラスになったに違いなく、何よりもドレスデンのドイツ的な響きを引き出せたことに大きく貢献しているに違いない。
聴いてみると独特のホール音響の形を感じた。
それは、半円筒のステージのフォルムを感じさせる。当初は、これがオペラハウスの形なのかと思ったが、響きが実際に聴いたゼンパーオーパーよりもずっと豊かで響きの拡がりが高い。ホールやステージの形が見える…というのは、プー博士のUNICORNのサウンドが気がつかせてくれた。同じウィーン・フィルの録音でも、ウィーン楽友協会とザルツブルク祝祭大劇場では、響きのフォルムが違う。それをプー博士のリスニングルームが見事に描き分けていたことは忘れがたい。そんなシステムはプー博士宅以外ではまず聴いたことがない。あるいはそれまではそういう響きの形ということに気づかなかったのか。
クレジットを見ると、1984年11月/ドレスデンとしか書いていない。ゼンパーオーパーの復元再興は1985年だったから、会場は明らかに違う。だけど、どこだろう?
調べてみると、ルーカス教会とのこと。
しまったと思った。昨年、ドレスデンに行ったが、この教会はオペラハウスなどがある旧市街と駅の反対側にあって訪ねてみようという発想がなかった。半円筒形のフォルムと教会の響きというのはなかなか結びつかず想像がつかない。さらに調べてみると、この教会では今でも盛んにコンサートが催されているらしい。
ようやく見つけた内部写真を見ると、なるほどと思った。このCDから聞こえてくる響きのフォルムが腑に落ちた。我がシステムも満更ではないということか。
ベルリン・ダーレムのイエスキリスト教会と同じように、教会なのに残響が残りすぎず、響きがクリアで理想的なホールトーンがする。繰り返しになるが、録音は極めて優秀。西独ハノーヴァー・プレスのオリジナル盤なればこその音だと思う。たいがいの再発盤は、第4番とのカップリングで78分の詰め込み。オリジナルは、『皇帝』のみのシングルカッティング。そのことがかえって得した気分がするのがオーディオ好きの性かもしれない。CDであっても詰め込みは音に影響するのだろうか。
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