mixiユーザー(id:26897873)

2016年12月14日10:20

417 view

ニンニクと日本人 ――母の思い出(その12)

母の得意料理が中華料理であったことは、前に述べました。餃子を包みながらよく母が口にしたのは「日本人は昔はそんなにニンニクは食べなかった」「食べるようになったのは戦後のこと」という話しでした。

それに続いて、「朝鮮人が嫌われたのは、気性が激しくて粘着質だったということもあるけれど、ニンニクを食べるから臭かったのよ。」とこともなげに言うのでした。母がリベラルな考えの持ち主だったことは前に述べましたが、その一方で、こうしたことを平気で言ってのけるところがありました。

母は、PTAの役員のようなこともやっていて、小中学校の先生たちとはずいぶんとざっくばらんなお付き合いがあったようです。今ほどではなかったとは思いますが、今でいうところのモンスターペアレントみたいな親もいて、先生の側に立って一緒に撃退したということもあったようです。

私の小学校の担任の先生は、岩下志麻に似た美人の先生で、ハイヒールで颯爽と学内を闊歩していました。熱血タイプで何事にも熱心なこの先生と母とは、同世代ということもあってとても気が合ったようです。生徒の間では、学芸大時代に同棲だか学生結婚で子供を堕ろして、だから子供ができないのだとかの噂があって、その話しをある種の尊崇の面持ちで女子生徒から聞かされたことがあります。先生は、女学校時代に広島で原爆にあった被爆者。学徒勤労動員で工場に出勤した瞬間にピカドンにやられたのです。ほぼ直下でしたが、気がつくと崩れ落ちた工場の瓦礫のすき間から這い出てきたとのこと。そこで見たものはまさに地獄絵図。先生は自分の生々しい体験を繰り返し語ってくれました。

まだ、丸木夫妻の『原爆の図』が広くは知られていなかった時代ですし、ましてやマンガ『はだしのゲン」の連載が始まるずっと前のこと。後年、その絵図などに触れて、先生が教室で語ったことと詳細まで一致していることに驚いたことがあります。教室でも熱心に語っていましたが、PTAなどの場でもそういう話しを聞く会を持っていたようです。あるいは、そちらが先で、母や親たちが子供にも話して聞かせるようにと懇請したのかも知れません。当時は、まだまだ、被爆体験というものは、むしろ、忌み嫌われ、隠すものだったのです。先生は、私が5年生のときに乳がんになり1ヶ月近く入院しました。定年後、故郷の広島に戻ってすぐにがんで亡くなりました。

中学校にも、ひとくせもふたくせもある先生が何人もいました。

英語の先生は、とても先進的で「これからはアメリカ英語の時代だ」とアメリカの最新のESL(English as Second Language)教育を取り入れたメソッドと、テープレコーダーを教室に持ち込んでランゲージ・ラボラトリー(視聴覚教室)式の教育で、私もずいぶんと鍛えられました。東京理科大の出身で、自分は戦争に行きたくないから理科系の理科大に行ったんだと、私たちの前で堂々と公言していました。

社会科の先生は、一見、ヤクザのような面持ちで、実際に麻雀屋や掛け将棋などにも出入りしていたようですが、その一方で、日教組の闘士としていくつかの裁判沙汰を抱えていたのです。やんちゃで人なつこい人間味がある一方で、いざとなるとスゴミもきかせることができるタイプ。今では駒場から上目黒にかけては高級住宅街というイメージもありますが、当時はまだまだ目黒川沿いは町工場が多くありましたし、そこかしこに戦争の爪痕や戦後の混乱が尾を引いていて、しかも学区内にある愛隣会目黒若葉寮の孤児なども通っていたので荒れた部分もあったのですが、そういう生徒は大概はこの先生の前では大人しくなってしまうところもありました。

そういう雑多な環境の小中学校時代でしたが、後年、母から、同クラスのなかに何人か在日韓国・朝鮮人の子弟がいたことを知らされて驚いたことがあります。在学時にはまったく気がつきませんでした。

ひとりだけ台湾系の在日華僑の子がいて、入学当初は「楊(よう)」と呼ばれていたのですが、ある日、父親が教室に乗り込んできて「楊(ヤン)」と中国名で呼んでもらいたいと宣言。一転して、出席番号まで変わってしまったことがあります。在日華僑は、実に堂々としていましたが、同じ在日でも韓国・朝鮮人は日本名を名乗り、まったく日本人と変わらぬ様子をしていたのでわからなかったのです。

教室では、子供の無責任な悪口雑言で「チョーセンジン!」というあからさまな差別言葉が飛び交っていたのですから、そのことを聞いて冷や汗が出ましたが、幸い私が軽口をたたいた相手はれっきとした日本人だったのでほっとしました。けれどもそういう言葉が飛び交う時、本当の在日の子は教室のなかでどんな思いをしていたのでしょうか。

母の話では、何度か親たちの食事会があって、そういう食事会は持ち回りで各家庭に集まっての食事だったのでその機会に韓国料理をごちそうになったというのです。思えば駒場の界隈に立派な居宅を構える富裕な家でしたから、親の世代はアイデンティティもしっかりとしていて、互いにこだわりなく尊重の意識をもって交流していたのでしょう。それでも、子供たちにはいっさいそういうことは秘匿していたのです。

在日が世代を重ね、日本の社会に同化していく過程で、むしろ差別・被差別の意識や、アイデンティティの問題がかえって先祖返りしてしまったようなところがあります。むしろそれは私たちよりももっと若い世代以降のことだという気がします。本国のほうも、独裁や軍制ということもあって日本とは隔絶していて、かえって問題が表に出ていなかったということもあります。今で言う『歴史問題』について、在日はずっと自らを秘匿し保護されていて、一方で、日本人は不勉強で無神経でした。互いにきちんと向き合わない時間が長かったのだと思います。

「ニンニク臭かったから差別された」という母の言い分は、決して無知で言ったことではないし、ましてや差別意識があったからではありません。

母の世代にとってみれば、ニンニク臭いこと以外に、朝鮮人が差別を受けるいわれはなかったし、差別をしていたわけでもなかったのです。戦前に育ち、戦後の混乱を体験してきた世代にとってみれば、「差別」が作られていく過程をつぶさに見て感じるものもあったのだと思います。今、母のようなあけすけな言い方をすれば、だいたいは「差別」「植民地支配」ととられてしまうでしょう。そういうものが急激に析出し、澱のように沈着していったのは戦後のことなのです。

今の民主主義とかリベラルといわれているものには、放送禁止用語のようなタブーがたくさん積み上がり頑固に凝着してしまっています。言いたいことを言おうとしても、そういうタブーとかマナーのようなものに阻まれてしまう。それは、終戦直後よりもかえって逼塞感が強くて窮屈です。正論が、そういう歪んだリベラリズムによってあたかも知性や良識に欠ける暴言として袋叩きにされる。そういうことへの反動が今日のトランプ現象と言われるものの裏側にあるのではないかとも思うのです。

時は、ベトナム反戦の時代へと流れていきます。これから先は母の思い出を語ったとしてもその半分以上が私自身のことになってしまいます。この辺で思い出話はひとまずやめておきたいと思います。

お付き合いいただきありがとうございました。

16 9

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する