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2016年12月09日00:28

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Z会とホンダN360 ――母の思い出(その11)

東京の上目黒に落ち着いた頃、母はそろそろ受験期を迎えるという団地の子弟を集めて英語教室のようなものを始めました。

子供がそれなりに成長して手がかからなくなったといえども、女性が家を空けて外で仕事をするということには抵抗のあった時代です。自分の英語力を活かしながら、主婦業と両立できるようなことということで始めた家庭教師業だったのです。

同じ頃、母が「手内職」として始めたのが増進会(Z会)の通信添削です。

毎月、小荷物が届いて、それを開けると縦長の解答用紙が束になっていて、模範解答を参照しながら赤ペン片手に頭をかきむしって格闘していました。私は、母の採点が終わると、それを得点順に用紙を整理して重ねていく手伝いをしていました。中味は皆目わかりませんでしたが、ずいぶんと得点に差があるものだなぁと面白がっていたところもあります。Z会は、後年、母のすすめもあって受験時代に取り組みましたが、あまりの難しさと手厳しい採点指導のコメントと、送られてくる会報に発表されるランキングの低さにずいぶんとへこみました。

「うちは安月給だから…」といいつつ、締め切りに追われてテーブルに紙を拡げて奮闘する姿は、まさに「内職」そのものでしたが、母はそれなりにやり甲斐のようなものを感じていたのではないでしょうか。

この時代、昭和30年代から40年代前半の10年は、日本のモータリゼーションの時代でした。

父が、いよいよ待望のマイカーを手に入れたのは昭和42年(1967年)のことです。

その前は、トヨペット・コロナの中古車をどこからか手に入れてきて乗っていました。2代目のT2#型。この車で、日光や那須などへドライブによく連れて行ってもらいました。ちょっと幹線道路から入ればほとんどが未舗装で、でこぼこ道や砂利道を土煙を上げながらガタゴトと走りました。ついに手に入れた新車は、日産のブルーバード。今でも名車といわれる510系モデルで、その最上級モデルの「SSS(スリーエス=スーパー・スポーツ・セダン)」だったのです。1.6リットルOHCエンジン、全輪独立懸架、三角窓を廃したデザインなど、当時のニッサンは輝いていました。これを選んだのは車が好きな父のこだわりでした。

この時、わが家は、同時に新車をもう1台買いました。ホンダのN360で、これは母の専用でした。並のサラリーマンにとってまだまだ自家用車は高値の花。ましてや2台所有というのは希な時代です。安月給の大学教授の父にそんな余裕がどこにあったのでしょうか。

この前後、大型船の海難事故が相次ぎます。

その最大の事故で各界で大きな衝撃を与えたのが「ぼりばあ丸」の沈没事故でした。ぼりばあ丸は、石川島播磨重工(当時)が建造し、ジャパンラインが所有していた大型ばら積み船。ペルーから鉄鉱石を積んで川崎港に向け千葉県野島崎沖合、強風のなかを航行中、船体が突然折れて沈没します。

就役からわずか3年3ヶ月でのぼりばあ丸の沈没は、その原因が大きな謎でした。船とともに命をともにした船長の話題とともに、設計ミスから溶接不良まで造船会社の責任が問われた一方で、未知の要因がいくつも重なった複合的な事故として学会をも巻き込み科学技術上の大きな論議を巻き起こしたのです。その後も続いたバルクキャリア船、鉱石運搬船の沈没が相次ぐなかで、その要因が次第に明らかにされていきます。

当時の父は、東大・物性研に新設された「塑性」部門を担当し、転位や格子欠陥など物性物理の世界と金属物性部門という工学の世界とをつなぐ研究を推進していました。その中で、転位と応力との関係を解き明かしていたのです。

その研究のひとつに、水素ぜい性があります。

水素ぜい性あるいは水素ぜい化とは、鋼材などの金属に空気中の水分などから水素が入り込み、延びやじん性が低下して強度が落ちてしまう現象のこと。古くからその現象は知られていて、特に酸性の溶解液中に浸して電気メッキを施した薄鋼板の強度低下がよく知られていました。その影響因子は複雑で決定的なメカニズムは不明だったのですが、父は金属と水素の関係、とくに結晶中の水素の量子力学的な挙動の研究を進めていました。この研究によって、溶接構造の大型船にとって、海水との接触による溶接部の水素吸蔵による強度劣化が大きく着目されることになったのです。

当時は、金属の強度を転位論から説明することなどはまだまだ考えも及ばなかった時代。父の研究分野は、超高純度の金属の製作などの地道な観察の積み上げや超伝導状態の金属結晶がその強度を消失する現象から、金属強度が電子やフォノンの散乱によって生ずることを解明していきます。こうした研究成果やそれによる知見は、溶接法の品質向上や超高張力のボルト鋼開発などに応用されていきます。量子力学的な理論物理学や基礎研究の世界が、金属や機械、溶接などの実学的な応用工学と結びついていったのです。

「塑性」の研究は、裏返せば「破壊」の研究です。金属が強度限界を超えて伸びたり潰れたりする「変形」ではなく一気に割れるように壊れてしまう「破壊」は、戦後のジェット旅客機時代の幕開けに起こったコメット機の空中分解事故によって、先ずは「疲労破壊」の問題としてよく知られるようになります。この頃、電子顕微鏡の発達によって、こうした破壊断面の様子を見ることによって、その破壊の要因が何であるかを突き止める試みが始められるようになります。従来の光学顕微鏡レベルでのマクロ破断面観察から、走査電子顕微鏡によるミクロ観察へと時代は進化していくのです。

また、残された破断面の解析は海難事故などの大規模事故の裁判などで責任所在を裁定する際の重要な証拠ともなったのです。父は、海難審判の裁定に寄与したことでまとまったお金を謝礼として受け取ったようです。その一時的な収入をここぞとばかりに新車購入にあてようとしたのでした。

これに対して、母は猛然と自分の車を要求します。

私たちの世代のように、成人すると誰もが運転免許証を取得するようになるのはもう少し後のことになります。ましてや母のような女性ドライバーはごくごく珍しい時代でした。どうもこれは、母の米国時代の経験があったようです。米国では、車がないと何もできない。運転できないことは、あたかも鳥かごのなかの小鳥のような囚われの身の上になるということを身をもって体験した母にとって、自家用車の運転は自由への切符のようなものだったのでしょう。それは意趣返しとは言えないまでも、父にとっては弱みのようなもので、どのような話しがあったのかはわかりませんが、父は母の要求を受け入れます。一時的な臨時収入はこうしてあっという間に2台の車になってしまったのでした。

その母の専用車となるホンダN360は、戦後の焼け野原から原付自転車を作る町工場として出発した本田技研工業が四輪分野に打って出た記念すべき車でした。小さくて安っぽい造りでしたが、エンジン前置きの前輪駆動という技術も当時は画期的なもの。当然のことながらマニュアルシフト。これを乗りこなす母の姿は颯爽としていました。

英語の家庭教師も、ホンダを手に入れてからは行動範囲も拡がって、いわば出張家庭教師のようなものになっていったのです。やがて区内から隣の世田谷、果ては大森まで出かけていきました。私たちが社会人になっても、この出張教授を続けていたようです。ずいぶん後になってから、高校や大学に進学した生徒さんからお礼の手紙を受け取っては喜んでいる母の話しを聞いて、ちょっとびっくりしたことがあります。あれやこれやありましたが、この頃の母は自分の人生にうまく決着をつけ始めたということだったのかもしれません。

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