母は、「引っ越し好き」を自認していて、10年ほどだった仙台時代でも4回住むところが変わっています。
最初は大学のすぐ近くの米ヶ袋で、まもなく仙台一高の近く連坊小路からちょっと入った二軒茶屋の公務員アパートに引っ越しました。兄達は、ここからすぐ近くのミッションスクールの聖ウルスラ幼稚園・小学校に進みます。リオ・オリンピックで活躍したバドミントンのタカマツペア(高橋礼華・松友美佐紀組)の母校ですが、当時、開校したばかりでした。その子弟は、裕福とは言えないまでも、やはり経済的は恵まれた家の子供たちだったのだと思います。兄の同級には、元プロゴルファーの沼澤聖一プロがいて、その実妹の元女優篠ひろ子(作家・伊集院静夫人)もウルスラの出身です。
やがて父の俸給が上がるとともに、新設された外記丁(現・青葉区上杉)の大学宿舎に移ります。私自身は、ここで近所の仙台ホサナ教会の幼稚園に通い、上杉山通小学校に進みました。「外記丁(げきちょう)」というのは、伊達政宗の家臣斎藤外記に由来するもので、つまりは、ここは侍町だったのです。仙台は城下町で、その時代の身分制度の名残を町名に残していて、「丁」がつけば侍屋敷町、「町」は町人居住区であることを示します。今ではこうした町名はほとんど無くなってしまいました。
仙台最後の住居は、仙台城(青葉城)地区の川内(かわうち)でした。戦後、ここは米軍のキャンプになっていて、アメリカ風の家が建てられていました。現在では、ここは東北大学の川内キャンパスになっていますが、米軍の撤収後に一時期ここが公務員宿舎に転用されていた時期があったのです。二軒続きの家ですが、前には広い芝生の庭があるアメリカ風の広々した家で、私たち家族は、ここで西洋式の生活をしていたのです。
私は、ここから広瀬川にかかる大橋をわたり市電に乗って1時間かけて小学校に通うことになりました。
コンクリート製の大橋の欄干には旧仮名遣いで「おほはし」と書いてあって、私がそのまま「オ・ホ・ハ・シ」と覚えてしまったのを母は子供のように可笑しがり、あの橋は何て言うのと聞いては私をからかって喜んでいました。ある日、私は学校の帰り道に橋の手すりから身を乗り出して川の流れを見ているうちに履いていたズック靴の片方を落としてしまいました。ようよう下まで降りて拾ってきたのですが、後でこのことを母に話すと母から何て危ないことをしたと叱られました。この「大橋」は今も健在です。
学校帰りには、よく道草をしました。青葉城の入り口から坂を登ったところには大きな野原があって、ここで夢中になってクローバーの花を摘んでいるうちに草履袋をどこかに置き忘れてしまったことがあります。母の手縫いのもので、帰宅してからまた戻って母と一緒に探し回りました。この野原には、今では大学百周年記念会館(川内萩ホール)が建っています。あの東日本大震災で、この青葉城入り口にある石垣が崩れてしまい心が悼みました。あの石垣は修復されたのでしょうか。
父がアメリカから持ち帰ったものにLPとオーディオセットがあります。
父も人の子、アメリカでもひたすら研究漬けの毎日というわけではなかったのです。レコードプレーヤーはガラード(Garrard)社のオートチェンジャーで、スピーカーはエレクトロボイス(Electro-Voice)社の30cmのメカニニカル2wayのフルレンジユニット(SP12)を、バレンシア・タイプのバックバスレフのキャビネットに収めたもの。キャビネットはキットを自分で組み上げたもので、ツィターなどの暫定取り付け穴があって、本当は、金を貯めて8HDという中高域ユニットなどを加えて3wayあるいは4wayにするはずだったのだそうです。
アンプは、すぐに壊れたらしくそれが何だったのかは私は覚えていません。もの心ついたときは、福音電機(現・パイオニア)のオーディオマスターAM−R81になっていました。これは出力管に6AR5を使用したレシーバーでFM放送も受信可能でしたので、私が大学に入学するまでずっとこれで聴いていたのです。
持ち帰ったLPは200枚近くあったでしょうか。
父の米国遊学に対してはいろいろあった母ですが、父のこういう贅沢にはなぜか寛容でした。レコードショップの店主に言われるがままに買っただけだと、ちょっと揶揄するようなことは言っていましたが、けっこう喜んでこれらのレコードを聴いていたのです。なかでも最大のお気に入りはオイストラフで、米国コロンビアによるオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団とのメンデルスゾーンは繰り返し聴いているので、一緒に聴かされた幼い私もこれが母の好物だということをすっかり覚えてしまいました。父も学会などで、東欧諸国に行く機会があるとオイストラフのレコードをよく買って帰りました。ソ連のメロディアやチェコのスプラフォンの国内盤があるのはそのせいです。父もけっこう母には気を遣っていました。
ある日、幼稚園でベートーヴェンの「月光ソナタ」を聴かされて、家に飛んで帰ってくると、この曲と同じものを聴いてきたとレコード棚から一枚のLPを引っ張り出して、母にかけてくれるようせがんだのです。このことにすっかり喜んだ母の笑顔がまた見たくて、何度もこのLPをかけてもらううちに、これが私のお気に入りだということになりました。RCAビクター盤で、演奏者がホロヴィッツだということを理解したのはもっとずっと後のことになります。子供なのでレコードの大体の在処とジャケットデザインで覚えているだけでした。
とても恵まれていたと思いますが、これがかえって仇になってしまい、世の中のステレオ普及にすっかり遅れてしまうことになります。私が60年代のステレオ録音に疎いのはこのせいでした。
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