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2016年10月23日14:34

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レガシィって何だ?

なかなか出口が見えない東京五輪会場問題。その議論のなかでやたらと出てくるのが「レガシィ」という言葉。オリンピックという世界ではあまり聞かれてこなかったこの言葉が、会場問題の勃発とともにしきりに繰り返されている。

そもそもレガシィとは、東京五輪招致直後に会長に就任したバッハ現会長の五輪改革のアジェンダに発する。五輪改革が唱えられたのは、肥大化する開催費用の結果、五輪誘致を競う候補都市数の激減傾向に危機を感じたからだ。バッハ会長は、こうした五輪の体質を改革するために20+20の提言をまとめたのが「オリンピック・アジェンダ2020」だ。2020年に開催地として選ばれた東京五輪はこのアジェンダのシンボルとしての期待があったはずだ。

アジェンダにより費用の削減、招致プロセスの適正化のための基本として唱えられているのが、『既存施設の最大限活用と一時的で撤去可能な会場活用の促進』である。そういう既存施設や仮設会場とするかどうかの判断は、遺産(レガシィ)が必要なのかどうかということにかかってくる。

今や世間の最大の関心事となっているボート・カヌー会場問題では、あたかも費用の削減そのものだけが焦点となっている。この問題の核心にあるはずの「レガシィ」という言葉は上っ面だけをなでるだけでその本質が伝わってこない。そもそもは、ボートやカヌーという競技にとってレガシィとしての国際競技会場が必要なのかどうか、必要であればそれぞれの検討案はそれが適切に実現できるのかどうかだ。

海上にある東京の「海の森」が、ボート競技会場として常識外であることは前に述べた。国際競技場として使用されるあてはなく、あるいは国際規格にかなった練習場として将来的に活用されることはない。一方の宮城県「長沼」も、周囲環境などその立地条件から同じように国際競技場などとして将来的に活用される可能性は無いだろう。県知事がしきりに震災の《仮設住宅》の転用で費用削減を強調するが、彼の頭には初めから「レガシィ」という概念がすっぽりと抜け落ちている。

もうひとつの案として、「海の森」を仮設施設として費用削減とする案が浮上した。これに至っては何をか言わんやだ。ボート競技団体は、すなわち初めから恒久的な国際レベルの競技・練習施設など望んでいなかったのか。だとしたら、将来の競技者のことなんか、これっぽっちも考えていなかったことになる。

この騒動には、日本経済の長い歴史的体質と経済構造の大きな問題が透けて見える。

それはすなわちフロー重視の「持たざる国」日本の体質だ。

幕末維新の混乱期に大量の有形無形の富や資産を流出させた日本は、ひたすらに経済規模拡大を追い求め、富国強兵策の破綻によって手痛い敗戦を迎えた。そこから再び高度成長を追い求めバブルの崩壊・長期低迷という第二の敗戦を体験する。それでも懲りずに現政権はさらに財政出動とマイナス金利という経済刺激策でひたすらに成長喚起を繰り返している。第三の破綻が目に見えている。将来に「遺産」を残すという思想は皆無。ひたすらにいま現在のフローの維持拡大のみにまい進するばかりだ。むしろ日本の社会的資産は、高齢化・少子化で劣化する一方だ。

フロー社会は、フローを得ることが目的化している。投資のリターンも、もっぱら効率の尺度として用いられる。投資の目的、あるいは投資の結果どういうものが将来遺されるのかなどはそっちのけで、投資効率の最も高いものが選ばれ、予算効率があるレベルより高ければその予算は認可される。フロー社会では、投資や予算の確保が目的化する。当初は低く見積もりいったんゴーがかかると、事後的にあれが必要、これが必要だったと実際の額を膨らませていく。もういったん取りかかった以上は取り消せない、撤退できないと脅す。このやり口は、戦前の軍部が散々に乱用し、戦後になっても官僚たちも企業内の出世亡者たちもものの見事にこの手法を踏襲してきた。

「ルールを変えるな」とバッハ会長は発言したそうだ。この言葉は、今になって会場を変更する小池知事に対してクギを刺したかのようにマスコミは伝えているが、ほんとうにそうだろうか。
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