「ドビュッシー最後の一年」に触発されて読んでみた。というよりも、それが入着する前に先行して読み始め、「最後の一年」と並行して読み進み読み終わったのが後先になってしまったというのが真相。
演奏でも著述でも大変なドビュッシー・マニアの著者の渾身の力作。いつもは洒脱な筆致で音楽の機微をえぐり出す著書にしては本格的な「ドビュッシー論」となっている。それもそのはずで、本著の内容は、もともとは著者自身の博士論文なのだそうだ。それを土台に、ドビュッシーとオカルティズムについて論じた未発表の論考を加え、一般読者向けに書き下ろしたもの。
著者が発している謎かけは、なぜ、ドビュッシーには未完の作品が多いのか?ということにある。中には音譜としてほとんどまったく未着手のものが多い。その最大のものが、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」のオペラ化だった。未完だったのは作家の気まぐれでも、怠惰でもない。それは10年近くも取り組み、片時も放置することなく死の直前まで難渋していた。
著者は、それを言葉、あるいは文学と、音楽、作曲との矛盾と対立なのだと説く。ドビュッシーがなぜこれほどまでに、『音と言葉の問題』についてつきつめて考えたのか?それはドビュッシーが文学者の仲間うちで青春時代を送り、常に文学青年のような発想をはぐくんできた作曲家だったからだという。
文章を書くときに文法のことなど問題にならない。問題は、いつも、何を書くか?であり、何をどう書くか?である。言葉の扱い方そのものは、ある程度のことは誰でも知っている。ところが、音楽はそうはいかない。音楽の場合は、幼児から訓練を受け、秘法めいた音楽言語とその操作を習得しなければならない。音楽とはそういう専門家の業であり、作曲であれ演奏であれ、常に技術が内容に先行する。文学に無作為や暗喩、日常・非日常を求めることはできても、それは音楽にそのまま移し替えることはできない。ポーが内包する恐怖や倒錯を、音楽で伝達しようとすればするほど、ドビュッシーの音楽の美学は崩壊してしまう。ドビュッシーは絶えず、そういう矛盾に苛まれ、二重人格者のようにまったく別の芸術的自我が対立し葛藤し続けていた。
近代まで、貴族やブルジョワなど富裕な社交な場と密接だった音楽の世界で、貧困子弟には無縁のはずの音楽教育を受け、その中でヴェルレーヌやボードレールなどの詩人たちと不意のニアミスを起こし、背徳、退廃の世紀末文学とその美学の世界にどっぷりと浸っていたドビュッシーの生い立ちの秘密などを執拗に追った前半部もなかなかに興味深い。家庭の貧困の原因となった父親のパリコミューンへの関与、そのために投獄され、そこでの出会いがドビュッシーのピアノの才能を開花させるきっかけとなったこと…などなど、ドビュッシーの一代記としてもなかなかに読ませてくれる。
ドビュッシーの音楽にある、漠然とした空白や茫漠とした欠落感は、そういう文学的裏面性の反映であり、それがまた、ドビュッシーの音楽の魅力なのかもしれない。
ドビュッシー―想念のエクトプラズム
青柳いづみこ 著
東京書籍
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