mixiユーザー(id:26897873)

2018年03月10日11:07

379 view

300年の旅 (玉井菜採 上田晴子)

玉井菜採さんは、紀尾井ホール管弦楽団のコンサートミストレスとして私にはとてもなじみがあります。とはいえリサイタルには足を運んだことがなく、ソリストとしては初めての体験。上田晴子さんは日本とパリで音楽活動をなさっており、パリ国立高等音楽院の助教授。私自身は、もともとはジャン=ジャック・カントロフの共演者として知ったピアニストですが、デュメイの信頼も厚くしばしば共演し、また、まだ10代半ばだった郷古廉や三浦文彰、周防亮介との共演を努めて若手を世に送り出す役目も果たしている実力者。玉井さんとは気の合うパートナーとしてしばしば共演を重ねておられる。

そういうデュエットへの期待とともに、今回、このコンサートに足を運んだもうひとつの理由は、久々にJTアートホールに出かけてみたくなったから。一時期、このホールのオーナー企業の活動が縮小されてしまってから、すっかりご無沙汰。最近、再び、公益財団法人として活動を活発にさせていると知って、再訪の機会をうかがっていたところだったのです。

さて、その玉井さんの使用楽器は、東京芸大所蔵のストラディバリウス“Ex-Park”で、1717年製。ちょうど昨年300年だったのだとか。それにちなんで100年刻みで300にわたる楽曲を取り上げるという趣向のリサイタル。これがとてもいろいろな気づきがあってとても楽しいコンサートリサイタルでした。

1曲目は、そのストラディバリウスと同年代のバッハのソナタ。

1717年というのは、バッハがケーテンの宮廷楽長に就任した年。ケーテンでは宗教曲の負担が軽く宮廷楽団には腕達者な器楽奏者が大勢いたのでバッハは器楽曲に専念し作曲家としては幸福な時代。ヴァイオリンとチェロの無伴奏曲が作曲されたのもこの時代でした。ここではあえて無伴奏ではなく、上田さんのピアノとのデュオでヴァイオリンとチェンバロのために作曲されたソナタを取り上げています。

バッハのこのソナタ集は時代のさきがけとなるもので、従来のトリオソナタの編成を凝縮させて通奏低音パートも対をなす旋律のひとつをともに1台の鍵盤楽器に集約させてしまいます。鍵盤楽器の複雑な技法がヴァイオリンとたびたび拮抗、交代し、その二声の動きとヴァイオリンとの対位法的な絡みが鮮やかです。

玉井さんのヴァイオリンは、基本的にノンビブラート。現代のヴァイオリニストはこうしたノンビブラート奏法もビブラート奏法も自在に弾き分けるのがもはや常識。それは日本のオーケストラでもほぼ完全に普及するまでになっています。けれども全くビブラートがないわけではなく、装飾的にしばしばビブラートがかけられる。そういうモダン楽器での古楽奏法の深化がとても鮮やか。

フォト

この3番のソナタの第3楽章は、荘重な哀感が漂う見事なシャコンヌですが、その終止がとても独特。フリギア終止というもので、古い教会旋法に拠っています。古めかしい雰囲気をかもし、バロック期でも器楽曲の緩徐楽章で頻繁に用いられた終止形なのですが、現代人の耳には半休止のように響きます。伝統的には、次の楽章へ中断せずアタッカで入るのですが、玉井さんたちは、ここではっきりと区切りをつけひと息入れていました。むしろ、旋法は旋法の様式として終止のけじめをつけるという意図があったのでしょうか。20世紀になってバルトークらが三和声と訣別し旋法を盛んに用いるようになり、ジャズ界でもコルトレーンらがモード奏法を展開してからすでに半世紀以上経ちますが、300年を隔てての変転回生の定着を問いかけるというこのだったのかもしれません。

二曲目はシューベルトのソナタ。

1817年といえば、シューベルトが二十歳になったかどうかという若さ。ナポレオン没落後の王政復古の反動による平穏の時代、定収入もなく素寒貧で文字通りボヘミアンのような生活でしたが、少年のような無邪気さとあふれ出る覇気に包まれ意欲は旺盛でした。それまでのヴァイオリンソナタにあったヴァイオリンとピアノの力関係を変えようという意図は、100年前のバッハのソナタと同じ。

シューベルトは、後世の作曲家に多大な影響を与えたと言われますが、生前はまったく認められなかった作曲家です。このソナタも出版されたのは40年ほど後のこと。21曲あるピアノソナタもその研究が進み、若書きの作品にも光が当てられ全曲演奏ということが試みられるのはごく最近のこと。その音楽に潜む先進性もあって、ロマン派の時代を跳び越え20世紀の音楽に直接波及したようなところがあって、100年という階段状の飛躍を実感します。

フォト

シューベルトのヴァイオリン曲は数が少ないのですが、なぜか、フランス流の洗練と昇華が似合います。紀尾井でも玉井さんがコンミスを務めるときのフランス楽曲には理想的なブーケの香りがしますし、パリジェンヌでもある上田さんのピアノとのデュオによるシューベルトには、どこかここにふさわしい花言葉でも探りたくなるようなフランス近代のポエジーが感じられます。

休憩をはさんでの後半は、1917年のふたりの作曲家。

1917年というのは大戦の年であり、またその大戦中のロシア革命の年でもあったのです。

その革命の混乱を機に、積年の苦難の歴史に終止符を打つべくフィンランドは独立を果たします。そのフィンランド国民の心の拠り所となったのがシベリウスの音楽です。そのシベリウスはもともとはヴァイオリニスト志望でしたが極度のあがり症でその道をあきらめたとか。こうして聴いてみると、前半とはまた違って歌の旋律がくっきりと浮かび上がるシベリウスは確かに国民楽派な側面があって、なおかつ、20世紀に中欧の正統からすれば辺境にあたる音楽のある種の復古的・民俗的な単旋律や旋法、単和声的な響きが色濃いのだと気がつかされます。

最後のフォーレが再発見でした。

同じ1917年、戦火の渦中にあったパリでその音楽院院長の要職にとどまっていたのがフォーレだったというのです。私自身は、フォーレは一時代前の人で、この時代はすでにドビュッシーやラヴェルの晩年という時期だと思い込んでいました。

フォト

そのフォーレの2番目のソナタは、ある種のノブレス・オブリージュともいうべき高い緊張感が漲っていて、真摯で透明な響き、輝かしいばかりの和声的陶酔感に満ちています。第1番のソナタとは、ある意味で別人格といってもよいほどで、これもまたフランス近代精神のテンションの高さなのでしょうか。この曲を持っていたかと訝りながらCDやレコード棚を探ってみたらちゃんとフランチェスカッティとカザドシュの古いレコードが出てきて、この曲をあまり聴いてこなかった自分を今さらのように恥じいる気持ちです。

フォト

ところで久々のJTアートホールの印象ですが、思ったよりデッドでその反面直接音がよく届くという今どきのホールとしてはちょっとユニークな響きという印象を受けました。座席が4列目という比較的かぶりつきに近いことと、角度的にヴァイオリン筐体正面を狙った座席取りが功を奏して玉井さんのストラディバリウスの力強く輝かしい音色を楽しめたことは幸いでした。会場は、年齢層が広く、特に若い人たちは音大生が多いのでしょうか、楽器ケースを背負って熱心に聴き入っていました。そういう意味では《発表会》の雰囲気があるのですが、内容はとてもハイレベルで澤和樹東京芸大学長(ヴァイオリニスト)やN響名誉コンマスの堀正文さんなどのお顔も認められ楽壇のお歴々も数多く来場のようでした。

そうはいっても堅苦しいところや、よそよそしいところは少しもなくて、主催者のスピーチや演奏者へのインタビューにも嫌みがなくて、とても楽しいコンサートでした。



フォト

スピカコンサートNo.167 300年の旅
玉井菜採&上田晴子デュオリサイタル

2018年3月7日(水) 19:00
東京・虎ノ門 JTアートホール アフィニス
(4列5番)

玉井菜採(ヴァイオリン) 上田晴子(ピアノ)

J.Sバッハ:
ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第3番 ホ長調 BWV1016
シューベルト:
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ長調 D574

シベリウス:
2つのフモレスケ Op.87
フォーレ:
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第2番 Op.108

(アンコール)
シベリウス:ロマンス
クライスラー:愛の悲しみ
11 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する