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2016年11月23日23:16

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転がり込んできた義母――母の思い出(その6)

わずか半年のアメリカ滞在で、母は再び仙台に戻ってきました。それは母にとっては挫折の半年だったのですが、兄たちふたりは予定より早く帰ってきた母を迎えてたいへんな喜びようで、そのことが母の大きな慰めになりました。

私たちは母に連れられて、野に山に昆虫採集などで遊び回りました。当時の市街地は現在の半分もなく、仙台はとても自然が豊かでした。八木山の植物園(現・八木山動物公園)にはよく行きました。その途中にある竜ノ口渓谷の落差が70m近くもある深い谷は自殺の名所でもあって、ここにかかる吊り橋は子供三人のよい度胸だめしでもあったのです。

作並温泉は、今では市街からあっという間についてしまう距離ですが、当時は本当に深山にあるひなびた温泉で、川辺に面した旅館の浴槽からそのまま素っ裸で河原に飛び出してはしゃぎ回るという風でした。その途中にある熊ヶ根の滝壺の周辺はそれこそ昆虫の宝庫で、国蝶オオムラサキの生息地だったのです。私たちは、映画「スタン・バイ・ミー」のように仙山線の線路伝いに歩いて、そこに向かいました。鉄橋やトンネルを歩くときは本当にハラハラドキドキで、蒸気機関車のドラフトが遠くから聞こえてくると一目散に逃げたものです。

そうしているうちに、間もなく父が帰国しました。母と私が帰国してから1年あまりのこと。そして、母と父は、何事もなかったように、元の生活に戻りました。

ある日、その仙台の狭いアパートに、突然、祖母(父の母親)が現れました。

祖父(父の父親)は、終戦の年に糖尿病で亡くなっています。父母が結婚を急いだのはそのせいですが、結局、間に合いませんでした。祖父は、東京芝浦電気(現・東芝)の技師でした。東芝は、「マツダランプ」という白熱電球を生産していました。マツダ(MAZDA)とはGEのブランドで、その電球や真空管、ラヂオなどを生産していたのが東芝の前身のひとつである東京電気です。白熱電球は、言わずと知れたエジソンの発明で、フィラメントに京都の竹を使って成功したのは有名ですが、その後の大きな改良には日本が直接貢献しています。いずれも現・東芝の発明で、ひとつはすりガラスによる内面艶消し、もう一つは、フィラメントを二重コイルにしたこと。これで効率と照度が飛躍的に改善しました。祖父は、実験補助の技師としてこの二重コイルの発明に貢献しました。

祖父が亡くなり、空襲で焼け出された祖母は、伯父(父の実兄)が引き取ったのです。

伯父は、東京帝国大学経済学部で学び、学者になるつもりでしたが恩師の急死で断念し、東芝に入社します。ところが戦後の混乱期に大争議に遭遇し、経営側に立たざるを得なかった伯父は嫌気がさして会社を去り、同僚と二人で新しい会社を創設します。伯父はその後肺ガンのために55歳の若さで命を終えますが、その会社(緑屋電気株式会社)はエレクトロニクス専門会社として発展を続け、今も健在です。

その伯父と父とは、母も嫉妬するほどの兄弟仲。伯父は、元来、世話好きなうえに、自分があきらめた学者の道を歩む弟である父が自慢で何くれと世話を焼く。5歳年下の父は父で、この伯父を敬愛してやみませんでした。祖母は、会津高田の商家の出身で、いかにも会津人らしい忍耐強い人ですが、反面、頑固なところがありました。夫に献身的に仕え、息子二人を育て上げ、その息子二人は、ともに一高、帝大に進み、自慢の孝行息子たちだったのです。父はそういう恵まれた家族関係のなかで育ち、どこか世間に疎いところがあったことは否めません。

要するに祖母は、その伯父の嫁と折り合いが悪かったのです。自分はひとりで暮らせるのに伯父がそれを許さないと愚痴を言いながらも、その矛先はその嫁である伯母のほうに向けられる。狭いアパートでその相手を一日中させられる母は困惑するばかり。これから同居するのかという不安もよぎりますが、何を父に言っても「すまないけどもう少し置いてやってくれ」というばかり。三、四日して、伯父が東京からやってきてなだめて連れ帰りました。

「息子というのはあてにならない」「息子に世話になるといっても、結局は、姑と嫁ということでもとをただせば他人だった女同士が対峙せざるを得ない」というのが母のくちぐせでした。晩年、自分で老人ホームを探して自分でさっさとそこへ移って、経済面も含めて、いっさい息子たちに世話をかけさせることがなかった母ですが、この時の体験があったからなのでしょうか。
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