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2016年11月21日00:46

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母に土下座した父――母の思い出(その5)

父がイリノイ大学に准教授として赴任して、母は昂然と渡米を決意します。昭和31年(1956年)冬のことでした。

まだ海外渡航は制限があって、留学など特別な認可が必要でした。所持する外貨にも制限があった時代です。留学といえども、単身であることのほうが当たり前の時代でした。しかし、夫がアメリカで教授職として奉職することになった。それは母にとって大きな機会だと思えたのです。

幸い、隣家が「お子さんを預かるよ。二、三年ならいいよ」と申し出てくれました。

新しく鉄筋の公務員宿舎ができて、仙台一高のすぐ近く連坊小路から入ってすぐのそのアパートで暮らしていました。敗戦後10年しか経っておらず住宅事情はまだまだ貧しい時代でしたから、私たちはとても恵まれていました。国立大学の教官は、国家公務員ですから、こういうアパートに入れてもらえたのです。隣家は、職業安定所に務める方でした。職安というのは、労働省の出先ですからやはり同じような立場だったのです。それでも、この時代はモダンなアパートといえども長屋住まいのような気風があって、特に隣家は、地元・石巻出身の気さくな方で、子供たちは互いに出入り自由の、文字通り家族ぐるみのつき合いでした。

母は、すでに小学校に上がっていた兄二人をこの隣家に預け、まだ4歳だった私の手を引いてアメリカへと旅立ちます。

横浜から日本郵船の氷川丸に乗りました。いま、横浜の山下公園で重要文化財として保存されているあの氷川丸です。昭和5年(1930年)に建造され、太平洋戦争中は病院船として生き残り、戦後、北太平洋航路に復帰し昭和30年(1960年)まで太平洋を往復し退役しています。船上では楽しい思い出ばかりで、この船がこうして長く保存され今もその姿をとどめていることほんとうにうれしいと思っています。冬の北航路は、霧が深く冬衣装でなければならないほど厳しいのですが、甲板で輪投げをしたり、ブリッジの大きな地図に示される現在位置のピンを毎日確かめに行ったりして退屈しませんでした。途中、ハワイに寄港上陸し日系人の暖かい歓待を受けたこともおぼろげながら記憶にあります。

親子ともに元気でシアトルに上陸しましたが、さらにそこからグレート・ノーザン鉄道(現・バーリントン・ノーザン)の列車でシカゴまでは一昼夜以上かかりました。列車はオール金属製の大きなもので座席もゆったりしていましたが、振動も激しく揺れもすごくて10日間の船旅では元気にしていた私もぐったりして最後は嘔吐して母を困らせたことも記憶の残像として残っています。

イリノイ大学は、シカゴの南140マイルほど離れたシャンペーンという田舎町にあります。ここで私たちは一応は家族として暮らし始めるのですが、父は朝食もそこそこに大学に出かけてしまい、母と私は家のなかに取り残されるだけ。私の記憶は、一日中、テレビばかりを見ていたというだけで、誰と遊ぶわけでも話すわけでもありません。それは母も、程度の差はあってもほとんど変わりません。アメリカというのは、車がなければなにもひとりでは行動することが出来ないのです。母は週に一度だけ父と車でスーパーに買い出しにいって、後は、私の面倒を見て掃除と洗濯を終えれば、食事の用意をして父を待つというだけの日々の繰り返し。

それでも向学心が強かった母は、父に頼んで大学のカルチャーセンターのようなところで英語を学びます。そこで若いドイツ人に頼まれて家で一緒に宿題をしていると、やがてこれを知った父が嫉妬してふてくされます。無為な毎日にいらだつ母は、一方で研究の自由を謳歌していた父に対して、不満が募るばかり。

母は、何度も父のイリノイ大での任期を問いただしますが、「わからん」の一点張り。業を煮やした母は、仙台に残してきた子供二人を呼び寄せたいと父に懇請しますが、父の返事は、「子供は呼ばない。研究の邪魔になる。」という心無いものでした。母は、半ば脅すように、半ばはすがる気持ちで「じゃあ、私たちはどうなの?」と詰問すると、「君だけは、どうかこのまま、いてほしい」と父はやおら床にひざまずいて頼むのでした。つまりは、幼い私ですらも日本に返し、妻である母だけ残ってくれと言うのです。これにはさすがの母も言葉が見つからずに、土下座する父を前にしばらく絶句してしまったそうです。

母としては、自分が海外で過ごしたことが今の自分にとってよい糧になった、だから、子供たちにも短い間でもよいから海外経験をさせたい、きっと子供の将来によい経験になると。そう思えばこそ、女ひとりで幼子を背負うようにして太平洋を越えて来たのです。私を連れてきたのは、自分の子供の顔を見ればさすがの父も情も移るだろうと、それは閉じようとする戸に足をかけるような戦術でもあったのです。

母は、「私は大の大人の世話をするつもりで来たのではありません。私には面倒を見なければならない子供たちがいるのです。」やっとそう言い返すと、仙台へ帰る決心をしたのです。アメリカへ来てやっと半年。母はまだ32歳でした。

帰路は重苦しいものでした。幼い私は、そんな両親の確執など知るよしもありません。まだらな記憶しか残っていませんが、ワンシーンだけ覚えています。シカゴのユニオンステーションではしゃぎすぎて手にしていた兄達への土産のガラス製の子豚の貯金箱を割ってしまいました。叱られると思ったのに、両親ともにどこかあきらめたように言葉少なだったことを妙に覚えています。

帰国の船は、アメリカンプレジデントライン(APL)のプレジデントウィルソン号でした。昭和28年(1953年)、今の天皇陛下が皇太子のときに昭和天皇名代として英国女王エリザベス2世の戴冠式出席のために英国へ赴く際に乗船した船でした。しかし、私たち親子は二等船室の船倉のような部屋に閉じ込められ往路とは一転した蒸し暑さに逼塞していました。甲板やデッキに出た記憶はなく部屋の丸窓が上方にぽっかりと浮かぶ薄暗い部屋しか記憶にありません。母は、船酔いに苦しみ、終始、うずくまり鬱屈していたのです。

これは母にとって大きな挫折でした。心に負った傷は深く大きいものだったに違いありません。

母は親戚や周囲から「夫に会いたさ恋しさに子供を隣に預けてアメリカまで行った」と陰口を言われていたことを知って、歯ぎしりをして悔しがりました。そんなつもりで、おまえの手をひいてアメリカに行ったわけではない…と。

後年、私がシカゴに留学し、帰国が迫ってから母を呼び寄せたことがあります。帰国に際して、カナディアンロッキーとハワイを孫たちと一緒に観光しようというわけです。出発を直前にして、イリノイ大学のあるシャンペーンの町に一緒に行ってみないかと誘ってみたのです。シカゴからシャンペーンまでは車で片道3時間ほどのところです。ところが「行かない。行きたいのならあなたたちだけで行ってらっしゃい。」とにべもありません。カナダでもハワイでも嬉々として楽しんだのに、懐かしいはずのシャンペーンの町だけは頑として拒んだのです。30年前に過ごした半年ばかりの時間を、まだ、どうしても許せなかったのでしょう。

こうしたことは、いわば共犯者のようなものだった私にだけは断片的な感情を語ったことはありますが、委細を語り出したのは父が亡くなってからのことです。それでも、感情を露わにすることはありませんでした。90歳近くなって、身体もだいぶ弱ってきてから、突然、私に語ったことがあります。

…あの時、本当は船から身を投げて死んでしまおうかと思った。でも、幼かったあなたがすがりついて「おかあちゃん、しまないで。しまないで(死なないで)。」と言うので、はっと、我に返って思いとどまったの。そうだ子供たちのために生きようと…

そんな記憶はまったくなかった私は慄然としました。ああいう年ごろの子供にはどこか霊感能力のようなものがあって、ひとの発信する心のシグナルに感応して、無心・無意識のままにまるで取り憑いたように耳覚えた語彙を的確に発することがあるのではないでしょうか。テレパシーというと大げさですが、それに近いことは時おり経験することです。そういう子供の無邪気が母を救ったのでしょうか。
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