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2016年11月19日09:29

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父の海外渡航 ――母の思い出(その4)

仙台の東北大学で研究を続けていた父に留学の話しが持ち上がります。

父の研究分野は、ひとことで言えば固体物理、あるいは金属物理という分野で、金属の様々な挙動を原子レベルの結晶配列の力学から解き明かそうというもの。金属が他の物質とは違った様々な特別な性質を持つのは、それが「結晶」構造をしているからなのです。父は、その物性研究のなかで「結晶転位」あるいは「格子欠陥」という、当時、最先端の分野の研究をしていました。

「格子欠陥」とは、本来、規則的な構造をしている結晶の格子状の配列に欠落や、不純物原子が割り込むことによる乱れがあること。「転位」とは外力などによってこの「欠陥」が移動していくことを言います。金属が曲がったり伸ばされたり、木や石のように壊れることなく変形できる(=塑性)のはこのためなのです。このことを量子力学のレベルから、説明し計算して予測しようというもの。

今でもそういう気風が残っていますが、当時の金属工学(=冶金学)とは、「鉄は産地によって違う」とか、合金がどうとか熱処理がどうとかいう、いわば錬金術の延長上の職人芸のようなもので、「物理」という机上の計算で鉄の硬さや脆さ、伸び、破断などが説明できるとは誰も考えていなかったのです。こうした研究は、やがて金属結晶中の伝導電子やフォノンの挙動にまで及び、半導体の世界へと拡がっていきます。

仙台では、若手研究者が集まって「格子欠陥」の勉強に明け暮れ、夜半まで議論に明け暮れたそうです。その研究者の輪には、新しく私の叔父(母の実弟)も加わることになります。叔父というのは、戦争に行かなかった最後の海兵卒の叔父のことで、終戦後、東大に編入して父と同じ道に入り、卒業とともに父のいる東北大の金研(金属材料研究所)に馳せ参じたのでした。当時は、その原子レベルでの「転位」の実像をとらえるのが大きな課題で、父が取り組んだのはX線回折でした。当時の先端は英国で、やがて父は結晶転位の研究を深めようと英国文化振興会(British Council)の援助を得て、東北大助教授の籍のままブリストル大学へ留学することとなります。昭和29年(1954年)、父は35歳、私が3歳の時でした。

ブリストルは、スチーブンソンの「宝島」でも知られる港湾都市で、もともとは大陸との奴隷貿易で栄えた町。大学は16世紀初に創建され、ブリストル湾に面する港から坂道を登った小高い丘にあり、すぐ近くには世界最初の鋼鉄線を使った吊り橋があります。サンフランシスコの町もゴールデンブリッジもブリストルをモデルとして町づくりが進められたそうです。父は、当時、この町での唯一人の日本人で、町の人から毎休日のように歓待を受けたそうです。

1年ほどして、父は、英国留学を終えて帰るはずの日本に戻ることなく、直接、大西洋を横断し米国のイリノイ大学へ向かいます。昭和30年(1955年)9月のこと。アメリカ行きは、留学ではなく准教授という資格を得ての赴任でした。

その時、母は、9歳の長兄を筆頭に、8歳の次兄、それに4歳になったばかりの私と、三人のいたずら盛りの男の子三人を抱え、仙台で孤軍奮闘の日々を送っていたのです。その時の写真を見ると、暴れ回る上の兄二人のせいで障子やふすまは破れてぼろぼろという有様。私は部屋の片隅でぼやっとしたまま口を半開きにしている文字通りの洟垂れ小僧でした。

終戦からちょうど10年。その翌年、経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言するのですが…。
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