mixiユーザー(id:26897873)

2015年05月28日15:48

2495 view

「新戦争論」(小室直樹著)読了

mixiのさるコミュで小室直樹のことが話題になっていたので読んでみた。

大層な論文かと思っていたが、手にしてみると予想に反して薄っぺらな本で記述も平易で読みやすい。30年前の読者にどのようなインパクトを与えたのかは預かり知らぬが、今になって初めて読む身にはしごく当たり前のことが書かれているように思える。

要するに「“平和主義者”が戦争を起こす”」ということ。

いくら戦争を否定しようとしても戦争は無くならない。真に平和を希むなら、戦争以上に合理的かつ効果的な解決を模索するべき。その間、現実の戦争の可能性に対しては物心両面で十分な備えがなければならない、ということだ。

平和主義(パシフィズム)とこれに毒された戦後日本の“平和ボケ”を痛烈に批判している。第一次世界大戦後の欧州社会に横行した厭戦思想が結果としてナチスドイツの勢力を拡大させ、悲惨な大戦を引き起こす直接の要因となったと論じている。一方、日本は戦争でこてんぱんにやられなければ満州や中国の利権を手放すことはなかったから、負けて『猛毒』を除きすっきりしたという。戦争とは、「つける薬のないものにつける薬」だというわけだ。この論議自体は、30年前であっても何も目新しい議論ではなかったように思うのは後知恵だろうか。

むしろ小室の慧眼は、現憲法の「戦争放棄」が、1928年の「パリ不戦条約」のコピペに過ぎないとということを示唆していること。さらに後半では、その文脈に沿って日本の「国連幻想」も痛烈に批判している。

国連とは、戦勝国クラブであり「第二次世界大戦後の現状維持の執行機関」であり日本など旧枢軸国を敵とみなすれっきとした「敵国条項」をいまだに維持している。多くの日本人は平和主義のシンボルのように見ているが、国連憲章は戦争を拒否していない。

「国際平和と安全」を高らかにうたった国連憲章だが、戦争の全てを否定も禁止もしていないのは「パリ不戦条約」と同じ。「自衛」であれば、「個別的」であろうと「集団的」であろうと戦争は何でも自由なのだ。このことが、解釈次第ではあらゆる「自衛戦争」は可能といういまの日本の解釈改憲論につながっている。

その国連は、あくまでも国際政治上のあらゆる外交的駆け引きが跋扈する醜悪な「場」のひとつ。「戦争に代わる手段」でもないし、これを近代主権国家を超越する理想の正義であるかのように錯覚するのは幻想に過ぎない。

いま国会では、まさに「安全保障法制」の審議が始まったところ。「自衛隊員のリスク」という本末転倒な議論で時間を浪費しているが、個人的には、もっとも危険なのは安倍総理のいう「積極的な平和主義」とその背景にある「国連主義」だと思っている。「国際貢献」こそ、「平和」の美辞麗句をまといながらも日本を戦争の当事者にしてしまう最大の火種なのだとさえ思う。

「後方支援」にはふた通りあることが十分に理解されているのだろうか。「集団的自衛権」に基づく「合衆国軍隊等」への後方支援には、「存立危機事態」の「新三要件」の縛りがあるが、「国際平和支援法」による「諸外国軍隊等」への後方支援には、「国連決議」さえあればそれこそ地球の裏側にでも出かけていくことになる。軍隊の後方支援は、間接的ではあっても武力行使だから憲法違反ではないのか?なぜ今のままではいけないのか?誰もそう問いただすひとがいない。

もしこれを強行するのなら、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」は「平和を愛さない諸悪の不公正と不義に対峙し、」とでも置き換えねばならない。そうすれば、その後の「われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」というくだりに矛盾なくつながる。

日本の安全保障をめぐる本は多いようで少ない。今の安保法制論議についてもジャーナリズムなどからの解説もほとんどなされておらず、あってもひどく偏った歪んだ一方的な主張しかない。

この30年前の古びた小冊子こそ、もっとも不偏不党で公正かつ本質をついたわかりやすい本なのかもしれない。

7 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する