さながら熟成したワインを味わうかのように、馥郁と香り立つ薫りと複雑な味と舌触りを堪能するような感動が拡がりました。
トリオ・ヴァンダラーは、数少ない常設ピアノ三重奏団。しかも1988年のミュンヘン国際コンクールで最高位を獲得して以来、不変のメンバーで活動を続けている古参。
実は、このトリオのことは何も知りませんでした。
紀尾井ホール主催の「ピアノ・トリオ・フェスティヴァル」。本当のお目当ては、今飛ぶ鳥を落とす勢いの「葵トリオ」。この際だからと、その勢いでシリーズ券を買ったから。恥ずかしながら何の予備知識もなかったのです。
最初のブラームスを聴いて本当に心底から感動しました。
さぐりを入れるような音程のぎこちなさがあったり、自分の耳に豊か過ぎるホール残響が耳についたのはほんの最初だけ。その後は、本当に見事な演奏。
ピアノ三重奏というのは、室内楽の女王。丁々発止のやりとりに興奮させられたり、磨き上げた緻密なアンサンブルに舌を巻いたりと、室内楽アンサンブルの楽しみの全てがあって、それが正三角形の均衡で見事に溶け合っている。そういう要素が全てあって、見事なまでに等距離の均衡が成立しているのが、このトリオ。
特に、ピアノの左手とチェロの低弦が同調した低域の上に重和音を奏で、ヴァイオリンの高域へと抜けていくピラミッド音響は実に胸のすくような交響楽的サウンド。これはなかなか他のトリオでは聴けない、まさに熟成のアンサンブルならではのもの。それが紀尾井ホールの素晴らしいアコースティックで空気を満たしてくれる。まさに至高の味わいでした。
この日のプログラムは、何のてらいもなくブラームスとシューベルトのこのジャンルを代表する名大曲の二曲を堂々と並べたもの。それはもうフランスに二大銘醸地のワインをどんと並べて味わうような喜びに満ちた時間。
ブラームスの第1番は、作曲者がまだ二十代だった頃の比較的若書きの作品。その若々しい高揚感と上昇志向、才能を認めてくれたシューマン夫妻への尊崇や憧憬といった、整理しきれない複雑な感情がふつふつと音を立ててあふれ出てくるような作品だと受け止められています。そうした未熟で過剰な着想を抑制する気になったのか、かなり短縮改訂された第2稿が一般的にはよく聴かれてきました。今回は、演奏されることが希な初稿のほう。
トリオ・ヴァンダラーの円熟の技巧は、本来、この若いワインを十分に寝かせたボルドーのような味わいで聴かせてくれる。数知れない複雑な成分が攻撃的で整理しきれない雑味があるからこそ十分な年月をかけて熟成させる。そういうボルドーにふさわしい真紅の色彩や響き、様々な着想や発想、三つの楽器がせめぎ合うような章句も、交響楽的な多彩さとスケールで、なおかつ、とても見渡しのよい構造で現出させるこの演奏には本当に感動させられたのです。
その真逆にさえ思えるのが後半のシューベルト。
創作の晩期の作品に、ともすれば思い入れが入り込みがちな演奏が多いのに、ヴァンダラーは、むしろすがすがしいまでに突き抜けた自由さと、終わりを求めない若々しい旋律美の移ろいを奏でていく。熟成を求めない一級のブルゴーニュのシャルドネを味わうような喜びに満ちています。
ブラームスが、構造的な全体構築のなかで細部の意匠の着想を競う屏風絵ならば、シューベルトは、感情の赴くままに絵構図がどんどんと遷移していく絵巻物。前者は複雑な薫りと味わいの響き合いを楽しむボルドーの赤ならば、後者は、フルーツの香りや草木の風、蜂蜜の甘さなどが次々と通り過ぎていくことを楽しむブルゴーニュの白。シューベルトには、清流の流れのような、いつ終わるともつかぬ時間軸の息の長い移ろいを感じます。終楽章で、回想されるようによみがえる第二楽章のアンダンテのメロディに涙が止まりませんでした。
意表をつかれると、余計に涙が出るのでしょうか。
ある種のカタルシスに満ちたトリオ・ヴァンダラーの演奏でした。
余談になりますが、譜めくり役を相務めたのは、葵トリオの秋元さん。まるで師に仕える弟子のように終始背筋を伸ばしてかしこまっていました。このトリオをこんなにも間近に見聞きして得るものは計り知れないほど大きなものなのに違いありません。
ピアノ・トリオ・フェスティヴァル2024−��
トリオ・ヴァンダラー
2024年6月28日(金) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階BL1列18番)
トリオ・ヴァンダラー(ピアノ三重奏)Trio Wanderer
ヴァンサン・コック(ピアノ)
ジャン=マルク・フィリップ=ヴァルジャベディアン(ヴァイオリン)
ラファエル・ピドゥ(チェロ)
ブラームス:ピアノ三重奏曲第1番ロ長調 op.8(1854年初版)
シューベルト:ピアノ三重奏曲第2番変ホ長調 op.100, D929
(アンコール)
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第6番変ホ長調 op.72-2より Allegretto
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