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2017年11月30日18:46

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シューマンの光と影 サッシャ・ゲッツェル/紀尾井ホール室内管

この日は、青々とした高い空からの日差しが暖かい小春日和に恵まれて、紀尾井ホールへ向かう道筋の外堀の土手に深まる秋を感じました。

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こういう空気感は、いまの東京ではよほどの機会に恵まれないと訪れてくれないという気がします。四季に恵まれた日本といえども、夏は多湿で冬は寒い。豊かで美しい日本の春と秋ですが、天候は不順なことが多く風も強いというのが日本のこの季節です。こんな爽やかで空や木々の輪郭がきりっとした日は、ライン河畔の初秋を感じさせます。

この日の指揮者は、サッシャ・ゲッツェル。

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2年前に、ヴァイオリニストのアナ・チュマチェンコさんと素晴らしいモーツァルトとシューベルトの「グレイト」を聴かせてくれました。

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その時、私は、「ウィーンの花の季節を思わせるようなコンサート」という感想を書いています。ゲッツェルさんにはそういう最上の風景画を連想させるようなところがあります。

とはいえ、第一曲のメンデルスゾーンには正直言って不満を感じていたのです。

何とも緩やか過ぎて、スコットランドの風景にしてはずいぶんと生ぬるい。北海の波に洗われるの無人島の奇岩の洞窟というよりは、まるで地中海の青の洞窟のようです。不気味さも神秘さも感じられません。この指揮者はスコットランドを訪れたことがないのだろうとさえ思います。メンデルスゾーンは、20歳の時にヘブリディーズ諸島を訪れてその風景に魅了されます。スコットランドは、森の精たちが棲む神秘の地としてワーズワース、キーツ、テニスンらの詩人たちや小説家などロマン主義文学の舞台としてしばしば取り上げられました。

メンデルスゾーンは絵も達者で、各地を旅行してはその地の風景画を数多く遺しています。その筆致は、音楽同様の天才振りを発揮した筆致で細密画のような描写です。とにかくテンポが遅く音の細密さに欠けるので、そういうメンデルスゾーンの筆致が出て来ないのです。劈頭でこの曲を取り上げたのは、シューマンのよき理解者であったメンデルスゾーンに敬意を表してのことでしょう。それ以上のものはなかったのかもしれません。

けれども、そういう生ぬるさは次の協奏曲でも続きます。

チェロのアントニオ・メネセスは、初めて聴きました。ブラジル生まれですがヨーロッパに渡りアントニオ・ヤニグロに師事します。ラテン系の柔らかい甘い声のテナーのような音色で、イタリア歌手のように歌います。オーケストラは、相変わらず緩いテンポでやはり地中海的。

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アンコールのバッハは素晴らしかった。師匠のヤニグロのバッハを彷彿とさせるように、朗々と、しかし、その深い沈潜する思索がしみじみと伝わってくる。よいチェリストだとこの時になってようやく思ったのです。

シューマンの管弦楽というのは、ピアノとは勝手が違うのか、どこか漠然としてうまく響かないところがあるようで、しばしば後世の作曲家の改作・編曲の餌食になっています。このチェロ協奏曲にはショスタコーヴィチが辛口の手を入れ、交響曲第2番はあのマーラーが例によって細かい手を尽くして改変しています。シューマンの管弦楽にはどうしてもそういう介護の手を加えられる病弱なところがあるのだろうという失望感が心に拡がります。ましてやとっつきにくい第2番ということもあって、後半にもあまり期待しなかったというのが正直なところです。

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ところが、その雰囲気は一変してしまいます。シューマンの心の光と影を濃厚に映し出した素晴らしい演奏。

序部劈頭のトランペットは難しいがとても大事。作曲者は、この曲の着手前に僚友のメンデルスゾーンに宛てた手紙で「ハ長調のトランペットが頭に響いている。」と書いているが、この曲の始まりであり、そして執着するように曲全体を支配する動機として繰り返される。ホルン、トロンボーンの支えが見事で、トランペットにとってこのいきなりのピアニッシモの難関を静かに歩むように乗り越えていきます。前進を強いるような付点音符からの5度の跳躍も、装飾音符のようにならずしっかりとリズムを刻む。弦楽器の不安と憂鬱が入り混じったような音型ともしっかりと絡む。もうここだけでただならぬシューマンだと気づきました。

続く主部のすさまじいこと。リズムがリズムとぶつかり合い、シンコペーションや変則的なアクセントが責め立てるようにぶつかってきます。そういうものはモーツァルトやベートーヴェンにも見られたし、複リズム的な衝突はショパンもしばしば用いましたが、シューマンのそういう形には独特の感性があってしばしば逸脱や狂気とさえ感じます。それを鋭利で明晰なまでの正確さで弾ききるアンサンブルが冴えに冴えるのです。

その正確なアンサンブルは第2楽章のスケルツォでもさらに冴え渡ります。このスケルツォは、オーケストラのヴァイオリン奏者のオーディションでしばしば弾かされるそうです。スピッカート(跳弓)の試練の連続でありアレグロ・ヴィヴァーチェの8分音符の半音階のスケールと細動が延々と続く主部は難所の連続です。木管群と弦楽器群がかけ合う二つのトリオも見事で、リズムはシンプルな2拍子のようですが細かな交差と跳躍が繰り返され、高揚とも錯乱ともつかぬ饒舌が続けられるのです。

そしてバーンスタインが「ピアニッシモの一大悲劇」と呼んだ第3楽章。

ほんとうにその通りで、しかもあまりにも美しい。ヴァイオリンのテーマがオーボエへと引き継がれ、そしてホルンの極上の和声が吹き上がり、そしてまたクラリネットやフルート、ファゴットへとフガートのように折り重なるように引き継がれていく。この時期シューマンは病んだ精神を癒やし鎮めるためにバッハ研究に没頭したそうですが、そういうバッハに倣った対位法がまるでウェーベルンのオーケストラ版「音楽の捧げもの」を予兆するかのように響きます。このオーケストラのホルンを含めた木管群は、ベテランからずいぶんと若返りが進みました。いずれも在京オケの若き首席たちです。終演後のアプローズで、ゲッツェルさんは、彼らを次々に立たせましたが、通例は遠慮して次席奏者にも起立を促しパート全員で拍手を受けるものですが、四人とも満面の笑みを浮かべてためらうことなく一人ですっくと立ち上がり満場の喝采を浴びていました。まちがいなく、自他ともに会心の演奏だったのです。

この第3楽章では、44小節あたりからヴァイオリンが果てしなく上行していき、ついにはとても高いところにまで上昇していきトリルになるところは、シューマンの美への希求と礼賛の叫び声とでもいったらよいのでしょうか、精神の厳しさと即物的な美の頂点が融合した切っ先のようなものを感じて頭の中が真っ白になります。第一、第二楽章の激しい動きとはまた別のかたちでの弦楽器群の勝利の瞬間でもあると思いました。

終楽章は、すさまじいまでの熱狂的エネルギーを爆発させます。そしてそれは心からの快癒と勝利とを歌い上げる「賛歌」のように最後まで突進を続けるのです。ここに至って、前回のゲッツェルさんの終曲がシューベルトの大ハ長調の交響曲「グレート」だったことに思い当たりました。ゲッツェルさんは、この小規模な(8-6-6-4-2)のオーケストラで、作曲者の書いたままの2管編成で、素晴らしいシューベルト、シューマンを再現することに熱いまでの情熱と自信を示したのだと思いました。

シューマンは、精神を病んで自殺未遂まで犯したというのは事実です。けれどもだからといって精神の耗弱が進むまま正気を半ば失いつつあるなかで作曲の筆を進めたわけでは決してないと思うのです。確かに、自身も病魔によって葉を一枚一枚奪われるようなはかなさと死の影に満ちた厳冬の恐怖に苛まれたには違いありません。けれども、さながら晩秋の小春日和のような短い正気の訪れを紡ぐようにしてこの曲を書いたに違いない、と思います。

そのことを「奇跡のようなシューマン」だと感じるのです。


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紀尾井ホール室内管弦楽団 第109回定期演奏会

2017年11月25日(土) 14:00
東京・四谷 紀尾井ホール

サッシャ・ゲッツェル(指揮)
アントニオ・メネセス(チェロ)
紀尾井ホール室内管弦楽団

メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟(ヘブリディーズ諸島)」Op.26
シューマン:チェロ協奏曲イ短調Op.129
(アンコール)
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番BWV.1007より「サラバンド」

シューマン:交響曲第2番ハ長調Op.61
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