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2017年05月17日16:31

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もうひとつの台湾―太魯閣渓谷 (台湾旅行記 その6)

台湾東岸というのは、台湾観光としては必ずしも一般的ではないと思います。そういう意味でも、ここにはもうひとつの台湾があるのだと思います。町の景観や風情にそういう台湾のもうひとつの側面を見るというのであれば台東がよいかもしれません。私は、台湾の剣山峻峰の自然景観に憧れていたので花蓮、太魯閣をどうしても訪れてみたかったのです。

そして、そこではそもそも台湾には関わりの深い日本人があまり知ることのない台湾の歴史のもうひとつの側面に触れ、そして台湾の人々の心の陰(かげ)のようなものも感じ取れたような気もしました。

太魯閣滞在の二日目は、一日かけてホテルの太魯閣渓谷ツアーに参加しました。

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ホテルのマイクロバスに乗って、3〜4家族、十数人のツアーです。私たちを除けばみな台湾人。太魯閣は台湾人の人気観光スポットなのです。案内してくれたガイドさんは、出身を聞いたらなんと上海から来た大陸人。どうりで私にも少しは聞き取れる中国語。

ツアー客は、比較的若い世代のせいか日本語はしゃべれませんが、とても英語が堪能な女性がいて、妻や私の話し相手になってくれて、通訳や補足してくれるので不自由しません。小学6年生という息子さんも時々英語で合いの手を入れてくれて楽しい観光の一日でした。

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昼食も、海岸近く台湾国鉄の駅近くにある土産物センターの食堂。ごくごく普通のセルフサービスのランチ。味は相変わらず薄塩。スープは意外にも獣臭い羊肉。雑穀米ふうの赤飯に肉味噌がなんだか懐かしい。


渓谷は聞きしに勝る、大変な景観の連続で、まさに萬丈の山、千仞の谷の連続。正直言ってあの滝廉太郎作曲の名曲、文部省唱歌「箱根八里」は、実際に箱根を見てもいささか大げさではないかと実感がわきませんが、この太魯閣渓谷のことなら、何と雄弁かつ正鵠を射た描写だろうかと思えてしまうほど。

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こんな険しい難所がよくも開発されたと思いますが、ここが台湾中央部を東西に横断する唯一の自動車道の一部。もともとは台湾中央部を横断する道路として日本統治時代の1914年に建設された「理蕃道路」が基になっています。しかし、中部横断の本格的自動車としての建設に執念を燃やしたのは蒋介石の長男であり台湾政府の中核を担った蒋経国。建設を担ったのは大陸から渡ってきた国民党軍の退役軍人でした。

脆くて崩れやすい地質の険峻な地形での建設は困難を極めます。道路建設は、東西を連絡する軍事的な意味合いもあったのでしょうが、国民党軍の雇用対策ということもあったのでしょうか。また、長男とはいえ継母の宋美齢とは微妙な関係だった蒋経国にとっては政権実力者として実績を重ねる一大国家プロジェクトだったのだと思います。

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所々で、バスを降り徒歩でしか歩けないような渓谷を伝って渓流や滝を見学したり、トンネル道を伝って絶壁に迫るような深幽の谷間を覗き込んだりと千変万化の景観を楽しみます。

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自動車道の分岐や別路が多いのは、完成後も地震や台風による地崩れ崩壊が続き、その度に補修や新道建設が行われるからで、土木技術の発達で道路はより直線的に拡幅されていきますが、取り残された旧道は往時の剣呑な地形を臨む格好の観光ルートにもなっているわけです。

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山道の脇には時々一軒家のような農家があったり、茶屋や屋台が軒を並べる一帯があります。竹筒で蒸した餅米は、土地の名物だそうですが、純朴そのものなのにほのかな甘味があってとてもおいしい。

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こうした家や人々は、国立公園内で特別の居住や農耕が許されている「原住民」の人々なのだそうです。ちなみに「原住民」というと日本では何やら差別的な響きがしますが、台湾では「原住民」が公式呼称で、「先住民」というと絶滅した古代民族のようでむしろ差別的な意味合いになってしまうそうです。

道路の前身、「理蕃道路」の「理蕃」とは、その原住民対策の意味で、原住民は「蕃人」「生蕃」と呼ばれ、清朝統治下以来、台湾の開拓と支配は、この原住民対策の歴史そのものだったのです。そもそも「太魯閣」とは、そういう原住民の一族タロコ族から来た地名です。当初は平地の開拓に専念した台湾支配は次第に山地やへき地にも及び、原住民とのあつれきが深刻化します。そうした「理蕃政策」を引き継いだのが1895年からの日本統治支配でした。

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台湾東岸は、山が海岸に迫り、耕地として荒れ地が多く台風などの被害も多くその開拓は困難を極め、その開拓に当たったのは主に日本統治時代になってからの日本人移植者でした。だから花蓮はもともとは日本統治時代になって開拓された陸路から孤立した港であって歴史的には花蓮港と呼ばれていました。この町にことさら古い日本の香りがするのはそのせいです。

ツアーは、そのタロコ族の集落跡地に建設された原住民センターにも立ち寄ります。私たち日本人は、戦前にあまり原住民の実態が知らされていなかったこともあり、こうして近年、台湾のなかでも正当なスポットライトが当たるようになった原住民紹介はとても新鮮です。

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写真は、ホテルでの夜の民族舞踏のショーです。観ていて何となくハワイ気分にさせてくれて楽しいものですが、あくまでも観光化されたもので、本当の原住民の伝統文化を伝えているのかどうかは定かではありません。

彼らの生活風習でも特異だったのは、顔面への入れ墨とともに「首狩り」の風習です。タロコ族は、首狩りで有名な山岳部族タイヤル族の支族としてこの風習を持っていましたから、花蓮地区の開拓民はしばしばその犠牲となり恐れられました。この風習は、敵対する部族への攻撃ということだけではなく、男子成人儀礼でもあったので近代に至るまで根強い文明対立が続くことになったのです。

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日本統治は、比較的早くから順化が進んだ平地のアミ族などには教育の普及など懐柔同化政策を進めますが、こうした山岳系の原住民の蛮習と抵抗には苦しみその対策は峻烈を極めます。彼らの居住区域の山岳はしばしば鉄条網で囲まれ、さながら害獣のような扱い。こうした反抗的部族を根絶やしにせんばかりの警察や、時に軍を動員してまでの、討伐作戦は比較的近年にまで及ぶのですが、当時の内地の日本人はあまり知らされていなかったのです。

なかでも歴史に汚名を残すのが、毒ガスが使用されたといわれる1930年の「霧社事件」でした。それは日本人警察官と部族長の息子とのささいないさかいがきっかけでに起きたものですが、セデック族の蜂起と日本統治支配の軍警による大弾圧に発展していきます。

台湾総督府の面目をかけた警察の弾圧と、抵抗制圧に苛烈なまでの軍事力を行使した台湾現地軍。やがて日本を滅亡へと導く政党政治の弱体化と軍専横化の二分化を象徴するかのような植民地統制の混乱。蜂起鎮圧はそうした状況の下で、親日派の部族勢力に首狩りを解禁奨励するかのような分断策を取ります。その結果、同族同士の殺戮にまで発展。軍は大砲や機関銃ばかりか航空機まで発動し、ついにその殲滅討伐に、当時、開発間もない毒ガスまで使用した。もちろん化学兵器は当時から国際法違反で、当時の国会でも批判質問が出たほどでしたが「使用していない」との一点張りの答弁に終始。そのまま闇に葬られます。

昭和天皇でさえ、こうした原住民への圧政を苛烈に過ぎると責めたほどのものでしたが、多くの日本人にはほとんど知られることなく今日まで至っています。国民党支配のくびきを脱し台湾独自のアイデンティティが確立しつつある現代、親日的と言われる台湾人の心情や、日本語を話し唱歌を口ずさみ統治時代を懐かしみさえする原住民の古老がしばしば紹介されますが、こうした日本統治の裏面を私たち日本人は決して忘却してはなりません。

そこには確かにもうひとつの台湾があるのです。

(続く)
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