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2016年11月18日12:20

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氏族か、平民か ――母の思い出(その3)

母の出自をたどっていくと四国の徳島にたどり着きます。

祖父、つまり、母の父親は、徳島県の那賀川下流にある大野村(現・阿南市)の生まれ。青色LEDで有名になった日亜化学の本社にほど近い町。中学を出て上京し、郷里の先輩である坂東家の住み込み書生となり、東京商大(現・一橋大学)を出て三井物産に勤めます。坂東家は、東京に出て成功し、向島に染色工場を経営し、弁護士もしていたそうです。子供がなく、また奥様の実家である藤田家も女子ばかりでみな嫁いで家を継ぐものがいません。いったん家を出た娘が生んだ孫娘と結婚して藤田家を継ぐことになったのです。いわば夫婦での養子縁組というわけです。あの時代、田舎の家ではそういうことがごく普通のことだったのです。祖父の本来の実家のほうは宿屋や郵便局もやっていてそれなりの旧家だったようです。先祖には美馬順蔵というひとがいてシーボルトの鳴滝塾の塾頭も務め、その植物画がオランダの博物館に現存しているそうです。

祖父は、そういう郷里の支援を得て立身を遂げたということで、後年、郷里に奨学金を寄付しています。その奨学基金は今も健在で、阪大で地球物理の教授をやっている私の従兄弟によれば、彼が一族代表ということで、毎年、徳島での式典に招待されているそうです。いつも過分な歓待を受け小さくなって恐縮しています、と照れていました。

祖母の実家である清水家は、埼玉県の農家の出です。そこに嫁いだ大伯母は加賀・前田家の分家という上士の出で、結婚し平民に落とされて悔しかったそうです。当時は、戸籍登録のために役場へ届ける際、名前の横に必ず氏族とか平民とか書かされていたとか。藤田家も士族でしたが、その大伯母に言わせると「足軽のちょっと上ぐらい」の下級武士。それでも士族は士族だというわけです。まだまだ戦前まではそんなことをしきりに気にしていたのです。

母は、その祖父が三井物産の香港支店に勤めていたときに生まれました。香港の一字をとって香代と名付けられたのです。三歳の時に、祖父がバンコックに転勤となり母たち家族もシャム(現・タイ王国)で育ちます。そのお屋敷には大きな四角い池があったそうです。バンコクはメナム河河口のデルタ都市。低湿地帯の土地に運河が縦横に走りすぐに水害に襲われる。水を避けるため屋敷は盛り土をして建てられ、土を掘った跡が大きな池になるというわけです。幼い母たちは蓮の花を取ろうとして水に落ちて溺れかけたこともあったとか。後に別の家で母の幼い妹はそういう池にはまって命を落としています。

家にはアマと呼ばれる使用人が何人もいて、母たちは香港からそのまま連れてきた二人のアマとバンコックで新たに雇い入れたアマとに世話されて育ちます。母はシャム語も覚えたのでそのアマにたくさんの話しをしてもらったそうです。シャム語は忘れても話しは覚えているのは不思議で、母はそうした民話のいくつかをまるで諳んじているように語ってくれたことがあります。母にとってシャムは生まれ故郷のようなもので、人形芝居やキングコブラ、あるいはホワヒンでの海水浴の思い出など、シャム時代の話しとなると本当に楽しそうでした。

現地では、日本人学校に通っていましたが、小学2年生になると、いつまでも文化・文明の遅れた「外地」に置いておくわけにはいかないとすぐ下の弟とともに日本に送り返され、東京の大久保の親戚に預けられます。生まれて初めて見た日本の河川が清く澄んでいるのを見てびっくりしたと私に語ってくれたことがあります。

母たちは、そこで従兄弟たちと暮らし小学校へと通い女学校に進みます。母は預けられていたということもあって何かと窮屈な思いもあり、この時代のことをあまりよく言いません。シャムでは抱き枕で寝ていた母が掛け布団をはさむようにして寝るのを「女なのに寝相が悪い」と叱られたそうで、いわば文化習慣の違い、帰国子女の悲哀をあちこちで味わったのでしょう。

その当主の伯父とも反りが合わなかったようです。伯父の父親は、海軍中将まで務めたひと。戦中に大将が量産された時代とは違って中将はたいへんに偉くて亡くなった時には勅使が来たとか。日露戦争当時は戦艦三笠の主計長で、横須賀の三笠博物館にある戦闘中の船橋を描いた大きな絵には東郷司令長官の右後方に並んで立っています。その謹厳な軍人の父親に厳格に育てられた伯父は、典型的なエリート秀才で東京帝大を出て電気技師になったひと。新宿の伊勢丹百貨店が新築されたときの電気設計はこの伯父によるものだそうです。母に言わせれば、いつも人の上にいて、自分の言葉が人にどう受け取られるかをあまり考えない人だったそうで、母はその伯父の言葉に何度か傷つけられたのだと言うのです。

そういう母は、小学校から女学校まで成績はあまりかんばしくなかったようです。府立第五高女(現・都立富士高校)に落ちて牛込の成女高女(現・成女学園)に通います。そこでは、ヴァイオリニストの前橋汀子さんの母親と級友だったとか。通信簿を受け取った母が「丙」がふたつもあって唖然として眺めていると、すり寄ってきた級友が「私なんか丁があるのよ。ほら。」と見せてくれた。それが前橋さんのお母さんだというわけで、まさかそれで娘に「汀子」とつけたわけではないでしょうけど…というのが母の笑い話です。

そのせいか、母はあまり私には勉強を強いたことはありません。小学校から中学、高校と一貫して私の成績はかなり怪しいものでしたが、どうのこうのと言うことはありませんでした。そのかわり、読書には熱心なひとで、とにかく本を読めということだけは口うるさい人でした。月刊誌「少年」のマンガばかり読んでいた私に、記事のほうも読みなさいとうるさく言っていましたし、兄達のために無理をして買いそろえた平凡社の子供向けの世界文学全集を、私もとにかく読めと言われて読み始めたのが、私の読書人生の始まりでした。

母も、伯父の家での居候生活がいつも窮屈で面白くなかったわけではないようです。ただし、そのよき思い出は、いつも遊びのことばかり。同居の祖母は芝居が大好きで、情操教育と称して従姉妹や母に長唄や三味線を習わせたり、学校を早引けさせて歌舞伎にたびたび連れて行ったそうです。あの伯父も、決して朴念仁だったわけではなく、むしろ多才多芸なひとで、マンドリンやヴァイオリンを弾いたり、スチルカメラや16ミリカメラで子供を撮ったりしたそうです。一時はダンスに夢中で、子供部屋で電蓄の曲に合わせて子供たちにワルツを教えたりもしています。ただし、ここでも母はやっぱり伯父とやり合ってしまったそうです。「ほら、拍子を打つのがわかるだろう」と言われて「聞こえない」と口答えしたため、伯父から「おまえは馬鹿だ」とあからさまに見下され、すっかり腹を立てたそうです。以来、ダンスには興味を持てなくなったと言っています。

二・二六事件の翌年に祖父が日本へ帰任し、やがて名古屋に転勤になります。母もそれで名古屋の女学校に転校し椙山第一高女(現・椙山女学園)に通います。「前畑ガンバレ」の前畑秀子で一躍日本中にその名を知られるようになった椙山です。その椙山は、東京の自由な雰囲気に較べると何でも先生が世話を焼くのが気に入らず、転校生の悲哀で友達もできずにあまりよい思いがなかったようです。けれども最上級になって赴任してきた新任の若い女性の英語教師との出会いが母を変えてしまいます。その溌剌とした授業にすっかり惚れ込んでしまい、自分とさほど歳が離れているわけでもない津田塾卒のその先生にすっかり憧れてしまうのです。それまでの早稲田卒の教師とはまるで教え方が違う。そのことが一念発起して津田へ入ろうと思うきっかけになったというのだから、人生はわからないものです。

一年の予備校通いを経て津田へ進学した翌年の夏休み、母は家族で中国に旅行しています。当時、祖父は転勤で山東半島の煙台に単身赴任していたからです。神戸から大阪商船(現・商船三井)の黒龍丸に乗って大連に向かい、小さな船に乗り換えて煙台に着く。船には夏休みに帰省する中国人留学生がたくさん乗っていたそうです。出張の祖父に帯同して煙台から半島の反対側の青島にも三日ほど旅行しています。半島の裏側に行くのにわざわざ対岸の大連に戻り、そこから乗り換えて青島に渡る。小さな船は中国人ばかりで平気で床に唾を吐くし、南京虫に襲われるし、辟易したそうです。帰りは慌ただしく八人乗りのプロペラ機での帰還でしたがエンジン音はけたたましく、機体は揺れるしで、生きた心地がしなかったようです。ある日、祖父が引き出しに拳銃を忍ばせているのを知って母は驚きます。「匪賊が日本人家族を襲う」と駐在員たちに警戒の呼びかけがあったのです。留学生が往来するような、まだまだ安泰だった頃と、いよいよ治安が悪化し日中戦争の深刻化する不穏さが交錯する、そういう時代の旅行だったようです。

帰路は、旅順見学を経て大連からぶらじる丸(初代・ぶら志゛る丸)に乗ったそうです。この1万2千トンの大型船は、1940年の処女航海のさなかに勃発した第二次世界大戦の影響で間もなく南米航路から撤退し、神戸・大連線に就航していたのです。翌年の41年9月には海軍に徴傭され南方輸送に従事することになります。ぶらじる丸には豪華な一等食堂や特別ラウンジがあったそうですが、その特別室「鎌倉」は南方輸送に際しては霊安室に改装され、やがて、トラック沖で米国の潜水艦に魚雷攻撃を受け沈没します。船が傾くと大野仁助船長はブリッジに立って「天皇陛下万歳」を三唱して船と運命をともにします。大野船長は、実直温厚なひとでしたが、トラック島で司令官の怠慢に激怒し「帝国海軍が日本を滅ぼすぞ」と言い放ったという逸話のある人でした。

母は、暗い時代へと墜ちていくそういう内地での生活に窮屈な思いをしたせいなのか、楽しい思い出に満ちた海外での幼い頃の生活のことばかりをいつも懐かしそうに話していました。後年、私が通訳観光ガイドの国家資格を取ったときに、「私も取りたかった資格なのよ」と言って、懐かしそうな、ちょっと苦い笑顔を見せたことがあります。今で言う帰国子女だった母はとても海外志向が強かったのだと思います。その希望は戦争によって無慚に断ち切られたのでした。
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