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2016年11月16日07:32

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戦争に行かなかった家族−−−母の思い出(その1)

母が死にました。

憲法が公布された記念日の日付が替わった未明、静かに息を引き取りました。享年92歳でした。

母の生まれは大正13年(1924年)。戦争のさなかに結婚式を挙げました。いまちょうどNHKの朝ドラマでこの時代のことが映し出されていますが、主人公のすみれのモデルとなった坂野惇子さんとほぼ同じ世代、戦争中の結婚ということでも同じです。

結婚は、昭和20年(1945年)3月18日。10日の東京大空襲の直後で、焼け野原のなかでの挙式でした。新婚早々の4月13日には焼け残った山の手にも焼夷弾が降り注ぎ、高円寺に新居を構えたばかりの父母は、線路伝いに逃げまどい、方南町の知り合いの家に転がり込んで難を逃れ、やがて疎開で空き家になっていた吉祥寺の家に移り住みます。

そういう戦中世代の父母ですが、敗戦直後の風景ということではずいぶんと違うような気がします。ドラマでは、すみれたちの夫らは招集され戦地に赴き、戦争が終わってもなかなか帰還しません。ドラマでは男手のない生活の不安と不自由さということが心象風景の大きな要となっています。ところが、私たち両親の家族たちは、全員だれひとり欠けることなく無事に戦後の生活を始められることができました。そういう家族は珍しかったのでしょうか。

実は、父母の家族はだれも戦争には行っていません。

父は理系の研究生だったので兵役が免除されていました。帝大卒の叔父(父の兄)は、東芝の中堅社員でしたので、いったんは兵役についたものの外地に赴くことなく帰還しています。母方の叔父(母の弟)は、海軍兵学校の最後の正規卒業生となりましたが敗戦直前のことでしたから任務に就くことなく内地で終戦を迎えています。

祖父(母の父親)は、外地にいましたが終戦直前に奇跡のような生還を果たしています。三井物産に勤めていて、中国の海南島に駐在し鉄鉱石等の確保に奔走していましたが、敗色濃厚となった6月に病院船で帰還します。すでに台湾沖は連合軍の制空圏内にあり、沖縄も壊滅していましたから本当に奇跡の生還でした。母は、祖父が玄関先に立って「やあ、ただいま」と手を挙げたのを見て、最初は幽霊を見たと思ったそうです。祖父は、「海南島を脱出できたのは、中国人の取引先の手助けがあったからだ」と言っていました。その祖父から言われた「中国人は信義に篤い国民だから、ちゃんとつきあえ」という言葉を私自身も一途に信じてきましたが、そういう信念は仕事の現場を離れるにつれて今では少々揺らぐことが多くなりました。

母は、商社マンの家庭でなに不自由なく育ちました。祖父の勤務地であった香港で生まれ、次の任地のタイのバンコックで育ちました。当時の商社社員というのは、今とは較べものにならないほどのエリートで裕福でしたから、母はいわばお嬢様育ちでもあったわけです。外面はそういうおっとりとした穏やかな女性でしたが、にこやかな顔をしてけっこう毒を含んだ皮肉を言うところもあって内面は思い込みが強く一本気で勝ち気なところもあったようです。

父との結婚も、お見合いの形をとりましたが、本当は母が父を見初めたのです。

津田塾大(当時:津田英語塾)を志しますが、一度は受験に失敗します。大学を目指す女性は当時は少なかったはずですが、浪人女子というのはなお稀少なはずで、受験生を預かっていた伯父伯母夫婦もその強情さに少なからず手を焼いたようです。それでも翌年に、予科を飛ばして本科に入学したので見事に1年を取り戻しました。大学生を夢見ていた母には、むしろ、英語の習得に終始する津田塾の授業には不満のようだったようで、講師として派遣されてきた東大助教授の中野好夫や池田亀鑑の講義を楽しみにしていたようです。

卒業は軍事色が一段と濃くなった戦中のことになります。女性も戦時徴用ということで軍事工場で働かされていました。母はそれを嫌って、何とか英語力などを活かす仕事はないかと就職口を探します。いわゆる職業婦人ということでしょうか。幸運なことに、縁故があって東京帝国大学・理学部に職を得ます。後に東大総長となり「小さな親切運動」で有名になる茅誠司教授の研究室の秘書役でした。

茅教授は、前任地であった北海道帝国大学の研究室員を全員引き連れて東大へ乗り込んできたばかり。研究室には、助教授と助手のほか大学院研究生や八幡製鉄の研究生がいて、その一部は理研(現・理化学研究所)の本多光太郎研究室に所属し、時々、東大にも顔を見せていました。そのひとりが父だったというわけです。

やがて母にもいくつか縁談が舞い込みますが、悩んだ母は、実は心惹かれるひとがいると母親に打ち明けます。まだまだ女性が自ら相手を選ぶことなど考えられない時代でしたから、「娘が恋をした」といささか大騒動になりますが、母方に連なる理学者の縁を通じて茅教授に話しを持ち込みます。お見合いのような食事会が準備されて、それでトントン拍子に話しが進んだというわけです。

父が所属していた理研の本多研究室は、敗戦直前に仙台の東北帝国大学の金属材料研究所に疎開することになります。本多光太郎は、当時最先端の金属材料学の権威で磁性鋼の開発者として世界に名を知られ、当時は日本人初のノーベル賞受賞に最も近いと言われたひとで、第一回の文化勲章を授与されています。東北の金属材料研究所は、その本多が創設した研究所でした。

すでに仙台も焼け野原になっていましたが、それでも食糧事情などは東京に較べればはるかに恵まれていました。父母はそこで終戦の日を迎えます。その終戦時の風景も、映画やTVドラマのそれとはだいぶ違っています。8月15日の夜には、電灯を煌々と灯し、その電灯の下で父は仲間と配給の残りの酒で飲み明かします。肩を組んで輪になって、「さあ、これからは自由だ!万歳!」と踊り騒いだそうです。母は、戦争に負けたのだから少しはしんみりしたらよいのにと、いつまでも続く酔漢の大騒ぎを呆れて見ていたそうです。

鋼鉄が無敵の日本艦隊を作ると言われた時代。その日本は散々なまでに打ちのめされますが、焼け跡の荒廃からの復興に歩み出してからも「鉄は国家なり」と言われました。その鉄の研究者である父たちにとっては、経済的にはともかく、職の安定、最低限の衣食住の確保という面では少しも不安はなかったのでしょう。私たち兄弟三人は、いずれもその仙台で生まれ、なんとか無事に育つことになるのでした。

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