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2016年07月09日11:57

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「西方の音」(五味康祐 著)読了

以前、復刻版の「オーディオ巡礼」を読んだことがある。

「面白かった」とその読後感を述べたところ、反響があっていろいろなコメントをいただいた。五味のほかの著書も読んでいる方が多くおられて、いつか私も他の著書を読んでみようと思っていた。

たまさか目にしたのは、丸善の丸の内本店だった。オーディオではなく音楽のコーナーにこの文庫本が平積みされていた。あくまでも音楽書として扱われていた。五味の音楽評論(《音楽随想》?)も読んでみようと手にしたのはそういうことだった。

もともとは1964年から『芸術新潮』に連載したものを、1969年に単行本化されたもの。連載はこの後も続いていて単行本にも続刊がある。決してオーディオ誌に連載されたものではない。だから本来は音楽論として企図されたものであろう…とは思う。

一編完結型だから、どこから読んでもよい。手にして目次をめくり真っ先に読んだのが「ペレアスとメリザンド」だった。これがいけなかった。がっかりした。

この章の始めから最後まで『U女史』への横恋慕の話しなのだ。不倫と呼べるものがあったのかはわからない。けれどものっけから『その美眸なのに一目惚れし』から始まって、デートを重ねた話しが続き、最後はパリで『U女史が結婚したことを知った』で終わる。その間、ドイツのハイデルベルクの古城に旅行者として立って『ドイツの青春』に思いをはせ、よぎったのがドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」だそうである。その帰途、『しょせんわたくしはペレアスではなく、よくいってゴローなのに気がついた』なのだそうだ。その間、例のデッカ本社での電蓄デコラとの邂逅が綴られる。これが、五味の「ペレアス…」と題する音楽随想(?)なのだ。

ベートーヴェンであっても、モーツァルトだろうとワグナーだろうと、全編この調子である。不倫やその相手の自殺、自身が起こした交通事故による轢殺への苦悩など私的体験が絡めて語られるが、所詮、《音楽随想》の一節だから限りがある。要するに言いたいことは、〈音楽とは教養や知識で解釈されるものではなく、個人的体験を通じて深められた感性で聴くもの〉というようなことなのだろうが、それにしても場違いで不整合な感覚が否めない。

時代的な制約のせいもあるのだろうが、評論としても、例えばカラヤンの出自などいかにも不正確だし狭量さが否めない。おそらく、楽壇や業界におもねった当時の音楽批評主流に抵抗した僻目の面白さをねらったものなのだろうが、かえって五味の音楽観の浅さと感性の鈍さをさらけ出しているようなところがある。後代のカラヤン批判の先駆けとも言える貶めや、アンチ・アメリカなどが典型。シベリウスの後期の交響曲や作品を『歳月は無駄にひとしい』と切り捨てるあたりも酷い。しかも、随所に〈自分は音楽家ではなく、シロウトに過ぎない〉と謙遜を装った逃げ道を用意するところが見苦しい。

ストラヴィンスキーは、自身が指揮した録音と発売が被ったカラヤンの「春の祭典」(1963)について『本物というより飼い慣らされた野蛮さ』と酷評した。根底には、ドイツのオーケストラの持つ重いリズムとソステヌートへの批判があったとされるが、G.グールドは、この酷評に対して「ストラヴィンスキー(作曲者自身)によるストラヴィンスキー」によって演奏解釈の自由や創造力が圧殺される危機感を持ったという。五味の評論や鑑賞姿勢は、高度成長期の音楽愛好家(その大部分はレコード愛好家だったのだが)の向上心に潜み入ったところがあったのだろう、日本のクラシック愛好家の俗っぽい《教養》(=スノビズム)として密かに沈潜し今も抑圧し続けているような気がする。

オーディオの話題は面白いし随所に時代を超えた見識を感じさせるが、ほとんどが同じことの繰り返し。「オーディオ巡礼」に重ねて読む意義はほとんどない。ただし、五味が本書では自身が補聴器を使用する難聴だったことを隠さずに吐露していたことは知らなかった。

五味の著書はもうたくさん、と思った。



フォト
「西方の音 音楽随想」 五味康祐
中公文庫
13 10

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