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2015年07月15日15:07

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シカゴ響の録音狂時代 (「The Right Place, The Right Time」番外編)

先日読了したシカゴ響の元フルート首席奏者ドナルド・ペックの自伝に、シカゴ響と録音会場について興味深い記述があったので、読後感想の番外編としてご紹介したい。

実は、おびただしいほどの録音があるシカゴ響のディスコグラフィーだが、録音会場がその本拠地オーケストラホールではないものがかなりある。しかも、例えばウィーンのムジークフェラインなど遠征中の録音を除くと、それがある時期に集中していることがわかる。その理由は、オーケストラホールの改修工事の失敗にあったそうだ。

その事情をペックが明かしている。

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その改修工事は、1966年夏に行われた。1904年にオープンしたオーケストラホールの音響が録音会場としては理想的なものだったことは、ライナーやクーベリックの録音を聴けばわかる。しかし、満席となるコンサートではややデッドだとも言われていた。そのために天井が改修されたが、その結果は意に反して「本当に」デッドになってしまった。

66年10月の改修工事竣工後の新シーズン劈頭のプログラムには、ベートーヴェンの序曲『献堂式』が持ち込まれた。いよいよリハーサルでマルティノンが指揮棒を振り下ろすとガツンと空疎な音がするだけ。その瞬間、一同は凍りついたそうだ。同じプログラムにあったニールセン「交響曲第4番」はそのまま録音されたが、いまだに不滅の名盤と賞されるこの録音では、実はRCAの技術陣はエコーを施すなど加工の限りを尽くして仕上げたそうだ。次からは、もはやこのホールを使うことは断念せざるを得なかったという。

ここから録音会場を求めて迷走が始まる。おりしもレコード全盛時代を迎えていた。様々な客演指揮者を迎え、いくつものメジャーレーベルが殺到し、レコーディングスケジュールで大忙しの時代に重なった。

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最初の候補は、数ブロック南にあったオーディトリウムシアター。シカゴ派の名建築家ルイス・サリヴァンの代表作のひとつ。実は、その音響はオーケストラホールよりも豊かでシカゴアンの多くはこのホール音響を高く評価していた。私自身もここでバーンスタインが指揮するウィーン・フィルを聴いたことがある。その美麗で深みのあるサウンドは今でも耳に焼きついている。しかし、この内装の美しい名ホールは、ステージが狭く録音には不向きだった。

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代わって使われたのがメディナ・テンプル。イスラム様式のエキゾチックな外観で、もともとは4200席の大劇場としてオープンしたが、この当時はサーカス公演の会場に改造された後で半ば廃屋と化していた。ここは過剰な残響音のために、混濁を避けるためにマイクは近接され、音は深みに欠ける。しかし、録音会場としては何とか使える。ペックは、ストコフスキーとのハチャトリアン「交響曲第3番」、ショスタコーヴィチ「交響曲第6番」などでは弦楽器の豊麗さと管楽器の甘い音響があいまって素晴らしいできになったと書いている。

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しかしRCAは、1968年には、問題のあることは承知で再びオーケストラホールに舞い戻っている。この年には小澤の「春の祭典」が録音されている。その小澤は翌年にエンジェル(米国EMI)とともに再び録音セッションに挑む。彼らは、メディナ・テンプルを嫌ってシカゴ郊外のウィートンのエドマン・チャペルを新たに録音会場に選んだ。一日かけてコダーイの「ガランタ舞曲」やボロディン「ダッタン人の踊り」が収録されるが、期待したような音響が得られずボツになる。

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その数日後、結局、元のもくあみでメディナ・テンプルに舞い戻ってあらためての録音セッションをこなすことになる。ここで残されたたったの二日間で、上記2曲のほかリムスキー・コルサコフの「シェエラザード」、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」を一気に録音する。スーパー軍団と若き小澤のバイタリティ、その手腕には驚嘆させられる。

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これらの録音は私にとっても愛聴盤だけれど、いまにして聴くと空間の広大さはまさにメディナ・テンプルのもので、反面、音場はとりとめもなく感じられ、楽器の前後感がひどく強調されて不自然に聞こえる。上記のような経緯からすると、ここが名録音会場だと喧伝されたのは、やはりここを録音会場とした名盤の数々のおかげなのだろう。

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1970年11月には、客演指揮者のバレンボイムがデュプレとともにここでドボルザークの協奏曲を録音している。そのレコーディングには6時間もの時間が当てられたそうで、ずっと付き合っていた親友のピンカス・ズーカーマンが、「君たちは、レコードを2枚録るつもりなんだね」と言って二人を笑わせたという。

1969年に、いよいよショルティとともに英国デッカが進駐してくる。

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デッカが選んだのは、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校のクラナート・センター。モダンな造りで、豊かな響きのホールだが、ペックに言わせると分厚いサウンドが得られるので弦楽器好みだが木管にとっては響きが豊かすぎて混濁しがち。解像度が悪くなり正確なピッチがとらえにくく正しいバランスが取りにくくなるという。それでもデッカは、このホールでのセッションに貪欲で、マーラー「大地の歌」、ベートーヴェン「第九」、同ピアノ協奏曲1、2、4番(アシュケナージ)などなどが一気に録音されている。

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70年代半ば、夏のオフシーズンに断続的に音響改修工事が行われた。吊り天井の裏の垂木にパネルを取り付けるなど、何とか反射残響音を取り戻そうという努力が次第に功を奏して改善が見られるようになった。おかげで録音会場選びの苦心惨憺が再び活発になる。デッカとRCAは引き続きメディナ・テンプルでの録音が続けられたが、ドイツグラモフォン(DG)とエンジェル(米国EMI)はオーケストラホールに戻ってきた。

そしてついに、1981年、デッカがオーケストラホールに戻ってくる。続いて、翌年、RCAもオーケストラホールへの帰還を果たす。

ペックは、82年のショルティとのデッカ録音でようやく録音会場としてのオーケストラホールが決着したという。一連のマーラーと、特にプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」については傑出した録音だったと自賛している。確かに、このレコードを聴くとここで何か吹っ切れたかのように本来のシカゴ・サウンドへと回帰したという気がする。もっとも、この評価は木管セクションとしてのペックのバイアスもあると思う。メディナ・テンプルなどの茫洋としていて響きが過剰な会場での録音がよほど嫌だったのだろう。そこのところは割り引いて受け止める必要があると思う。

日本でもコンサートホールの音響改善のための改修工事がたびたび行われるようになってきた。やはり音のよいホールというのは一朝一夕にはいかないようだ。しかも、良かれと思った工事が仇になるということもあるのだ。シカゴのオーケストラホールの場合は、空間容量を上げるために天井板をスクリーンに置き換えたことが仇になった。音響設計士によれば、直接音が天井を突き抜けて垂木に達し、そこでほどよい残響をともなって反射して下りてくるはずだった。ところが実際には音は天井裏に滞留してしまい響きが無くなってしまった。

そのことで、このホールにはデッドでドライとのネガティブな評価がつきまとうようになった。レコード会社は15年ものあいだ他の会場を求めて迷走し続けたのだ。一時的な会場で、限られたスケジュールのなかで理想の録音ポジションを決める現場の苦労は並大抵ではなかっただろう。もちろん、録音後の編集で加工することも可能だ。デジタル時代になって、編集技術進歩で現場の負担はずいぶんと軽くなったといわれている。

しかし、もっと大事なことは、演奏そのもののことだ。音響条件の違う会場で短時間に適応を求められる演奏者は大変だ。日替わりのように音響環境が違ったら、果たしてベストな演奏を維持できるのだろうか。やはり、録音に限らず、きちんとした本拠地を持つということがオーケストラの個性を磨くうえで何よりも大切なのだと思う。

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