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2014年12月04日17:56

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コンセルトヘボウでコンセルトヘボウを聴く(その3)

いままで聴いたマーラーはマーラーではなかったと思わせるほどのコンセルトヘボウのマーラー。そのお話しの続きです。

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マーラーの6番といえば、カウベルと大きな木のハンマー。

マーラーの交響曲というのは、とてつもなく大編成で大音量というイメージがあります。ところが、全ての楽器が鳴っている場面は意外に少ない。それが、この6番では、ほとんど、どの場面でもぎっしりと詰まっていて強弱のダイナミックが大きい。しかも、5番辺りから対位法が精緻を極めるようになってきて複雑なスコアになっています。

この交響曲で使用されるカウベルは、複数のいろいろな音程のものを舞台裏で微かに鳴らすように指定されています。第一楽章から登場するカウベルは、ほんとうに遠く微かに聞こえます。複雑なスコアの微細な個々の音が、指定通りの強弱でよく分解して聞き取れるのがコンセルトヘボウというホールの凄さなのだと思いました。そういうホールでこそ、このオーケストラの容赦ない強弱の広大なダイナミックレンジと精緻な解像度の音楽が造られているのだと、つくづくと思わせます。大音量よりも、ハープ、チェレスタ、トライアングルなどの微小な音のほうがオーディオにとってははるかに難しい。ましてや、舞台裏からのこの微かなカウベルの牧歌的平安を再現することはほとんど不可能。多くは現実的な可聴レベルにまで上げています。そうでなければ聞こえません。

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こうした緩徐楽章は、5番のアダージェットが有名です。弦とハープだけの薄暮のようにうっすらとした半透明のサウンドが日本人好みで、ウィーン・フィルやアメリカのオケが見事ですが、6番の第3楽章はもっと濃密な多幸感と牧歌的な拡がりがあります。ここはコンセルトヘボウのベルベットのような厚みのある光沢のヴァイオリン群がほんとうに官能的。こういう歌わせ方はイタリア人のガッティの真骨頂なのでしょう。その旋律を歌うトランペットがこれまた見事でした。舞台裏のカウベルがいかに微弱かと覚ったのは、この楽章では二組のカウベルがステージ上で鳴らされたからでした。幸福と平和が高まれば高まるほど、それは不吉なまでの哀感に包まれていきます。

柴田南雄氏の言うとおり『どんな機械装置でも再現できるはずがない』と思わせるのが最後の第4楽章。

ここでは「運命のハンマー」が2回打ち下ろされます。が、その音響は「がん」と鈍く響くだけで実は大したことはありません。むしろ、マーラーはその音の衝撃よりも、視覚的な効果のほうを狙ったのではないでしょうか。その点でも、コンセルトヘボウのステージ階段最上段に構える打楽器群は、客席からよく見えて効果的。人の頭よりも大きな木槌が振り下ろされる視覚的衝撃は凄まじいものがありました。

とにかく壮大なフィナーレで、瞑想的な部分と複雑な運動から生まれる緊張が次第に蓄積していき、あの「運命」の一撃の頂点へと向かう高まりはほんとうに劇的。そして、最後の最後のあの鮮烈なトゥッティ。まさに「悲劇」の一撃。ホール全体がまさに凍りついたようになって、あのファシズムの歩みのような小太鼓とティンパニのリズムが消えても静寂が続きます。それが大歓声になったのは、ようやくガッティが指揮棒を下ろしてからでした。


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(蛇足)
蛇足ながら、最後に苦言を少々。

コンセルトヘボウ管の聴衆の服装はとてもカジュアル。それはよいのですが、そのマナーはいささかだらしなく、世界最高のホールとオーケストラには似つかわしくない。前席の紳士は演奏中ずっとスマホを見続けていて後列の淑女が何度も舌打ちしていたし、私の隣人は演奏中ずっと寝ていて私の肩にしなだれかかってくるのでひどく興ざめでした。

オーケストラは、どのパートもほんとうに素晴らしいのだけれど、ホルンが弱い。といってもミスらしいミスは一箇所あっただけで日本のオケのホルン吹きが束になっても敵うようなレベルではないのですが、音色やフレージングがやや単調。どうもプリンシパルの二人ともこの一、二年に入団したばかりの若いメンバーのようで、まだ、オーケストラ全体に漲る音楽性に馴染んでいない。こんなことを感じるのも、それだけ他のメンバーがあまりにも素晴らしいからかもしれません。

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