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2018年01月18日23:42

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山の音 (川端康成 著)読了

年末にふとTVをつけていたら成瀬巳喜男監督「山の音」を放映していた。一昨年95歳で亡くなった原節子の特集だったのだろうが、よくわからない。

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川端康成は好きで読んでいるつもりだったのだけど、映画を見てみると読んだ覚えがない。「山の音」と言えば川端の作品のなかでも最高傑作とも言われる。それが、こんなメロドラマ風のストーリーだったのかと、ちょっと意外な気がした。読んでいないことに気がつくと軽い恥辱のようなものも感じて、それで読んでみようと思ったのが真相である。

同じ新感覚派を出自とする横光利一なんかも夢中で読んだ覚えがあるから、川端も好きだった。横光よりもずっと読みやすく、しかもエロスに満ちていたから高校生の私には読むと高揚感があった。それなのに戦後文学の最高峰、川端の代表作とも言われる「山の音」を読んだ記憶が欠落している。画面に映る原節子の美しい笑顔を見ると、読んでいないという確信がわいていきて軽いめまいがしたというわけだ。

川端の姿を見かけたことがある。

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それは、先だって閉館した鎌倉の県立近代美術館で、エドヴァルド・ムンク展があってそれを見に行った時のことだった。「思春期」の絵だったと思う。川端はとても小柄な人で、黒山の人だかりにあきらめたかのようにかたわらのポスターをじっと固まったように見つめていた。

ガス自殺したのは、その二年か、三年ほどか後のことだ。ガスホースを口にくわえて死んでいたと報じられたが、はぐれたようにポスターをじっと見ていた姿がそれと重なった。動機については様々に言われたが、暮夏に蝉が乾いて仰向けに落ちているのとあまり違わないように思ったことを覚えている。その年の夏に、初恋の相手と別れた。鎌倉へムンクを一緒に見に行った中学時代の同級生のことだ。

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川端は言うまでもなくノーベル賞受賞者である。

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受賞後に、三島由紀夫とテレビで対談していたのを覚えている。川端が「いずれ君がもらうはずだったのに、自分がもらってしまって…」というようなことを無表情に口にして、三島は「あれは順番ですから、もう私には回ってこない」と受け取りようによっては怨みのようなことを言ったと記憶している。その予言は当たっていた。

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その三島が自決したのは、川端のそれの2年前のことだ。衝撃的な事件だったが、やはりその動機についても俗っぽい詮索がされた。その時は、老醜そのものを恐れたからだという説に納得していた。老いの醜さを自覚する以前に自死することを早くに計画していたという説で、同伴した憂国の若者たちは無惨なまでに利用されただけなのだという。

主人公の尾形信吾は、老いの自覚に苛まれている。

鎌倉の谷(やと)の奥から山が鳴る音を聴いた。それを聴いて信吾は恐怖におそわれる。『死期を告知されたのではないかと寒けがした』。

小説は、その信吾の身辺と鎌倉の四季の移ろいとのかかわりで淡々と進む。信吾はしきりに人生の成功者なのかどうかということを考える。それは社会的な地位や名誉というよりも家庭人としての幸福の成就のようなことのようにも考えるが、戦地から戻った息子は虚無に溺れ愛人に走る。夫が麻薬で頽廃して婚家を出た娘がふたりの幼子とともに転がり込んでくる。思春期で焦がれた女性への想いで常に幻影に苛まれる。醜女だったのにその妹と結婚したのは美しかった姉への未練が隠されていたことに負担を感じ続けている。

息子の嫁である菊子に、かつて焦がれた妻の姉の面影を重ねる自分に危うさを感じるけれど、そこにあるのは「美女の血統」への疎外感という仮姿をまとった自分の生種の存続への妄念のようなものかもしれない。千年とも万年とも言われる時間に埋もれた大賀ハスの種が再生したとの新聞記事がくり返し菊子との間で話題にされる。あの美しかった姉の方と結ばれていたら…という未練のようなものにも思える。

誰しもが老いるとそういう初恋の相手とか、自分の人生の結実について思い巡らせ、季節ごとに移ろいながら生を営む自然に愛おしさと虚無を感じながら、自らの死期におののくのだろうか。

この歳になってこの名作を初めて読むことになったことは、限りなく残酷な仕打ちだと思った。




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山の音
川端康成 著
角川文庫

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