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日記一覧

○以下の三つも家康の書いた手紙です。まずは八月十三日付、浅野幸長宛て。●手紙六五号「そちらの状況を教えていただきたかったので、村越茂助を行かせました。お話し合いをなさって、お伝えくださいますように。出馬のことに油断はありません。ご安心くださ

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○以下の手紙は三つとも家康が書いたもの。まずは八月十二日付、加藤清正宛て。●手紙六三号「このたび上方と戦争になったとはいえ、あなたは敵対しないとのことですから、大変に喜ばしいことです。ですから、肥後と筑後の両国を差しあげますので、手に入れ次

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○まずは家康の書いた手紙から。八月八日付で、宛名は黒田長政です。●手紙六一号の一番「吉川殿からの手紙、よく読みました。書いてある内容、いちいち納得するものです。輝元とは兄弟のように話をしていましたので、不審に思っていたところ、御存じなかった

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○関西軍が伏見城を落として、家康への敵対を宣言したころ、関東にいた豊臣軍団は東海道を西進していて、福島正則の居城である清洲城へ向かっていました。このころの東海道は、きちんと整備されていませんし、大井川や天竜川など、渡るのに苦労する川がいくつ

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○本物と見られる「手紙五五号の二番」は八月四日付。そこには「上杉と伊達が連携していて、徳川と敵対している」という不思議な記述。しかし伊達政宗の書いた「手紙五四号」は八月三日付で、徳川家に対して「絶対の御奉公を誓います」とあったわけです。こち

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○石田三成の手紙をもう一通。今度は茨城の佐竹義宣宛て。日付は八月七日です。●手紙六〇号「先月二十三日にそちらを出立した飛脚は、無事に大坂へ到着。先月二十六日のお手紙も、江州佐和山で拝見。この飛脚は大坂へ通しました。追ってお帰し申すつもりです

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○細川忠興の領国「丹後」を制圧するために、丹波の大名衆に出陣命令が出たのは、「手紙三三号」によると七月十七日。関東で「前田軍の救援出陣」が発令されたのは、『細川家史料』の「忠興の手紙二号」によれば八月一日の前。しかし八月二日付「手紙五三号」

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○定説解釈では「最初から徳川と戦う全面戦争」です。その根拠となっている手紙史料がありまして、「内府違いの条々」と呼ばれています。家康の批判を十三条にわたって書いたもので、七月十七日付。つまり、三奉行と石田三成が連名で書いた「手紙三三号」細川

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○石田三成が真田父子宛てに書いた「手紙五八号の一番」には、「伏見城を落としたときの状況」が書いてありました。しかし、攻撃に参加した者へ宛てて書いた「手紙五二号」の二通とは、内容がだいぶ違っていたわけです。そこで今度はもう一通「石田の真田宛て

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○時間を巻き戻して、落城の翌日、八月二日の手紙です。伏見城を攻め落とす戦闘で、功績のあった二人の武将に宛てたもの。佐賀県の鍋島勝茂と、福岡県小倉の毛利勝永です。書いたのは三奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以の連名です。●手紙五二号の一番「伏

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○八月に入ると伏見城が落ちます。当初は「島津家が大人数を率いて仰々しく留守番を務める」という「手紙一九号」の話もあったようですが、結果的には、わずかな留守番が残るのみでした。「決起した西軍は最初、徳川の留守番役に伏見城の明け渡しを求めた」と

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○細川忠興が書いた手紙です。出典は『細川家史料』なので、原本から翻刻されたものであり、間違いなく本物の手紙です。宛名は息子のミツで、八月一日付。●細川忠興の手紙二号「備中をこちらへ呼び、道具なども渡し、こちらのようすなども話したのだが、書い

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○いよいよ関西軍の手紙も八月に入ります。五大老メンバーの宇喜多秀家と毛利輝元が連名で、鹿児島の島津家久に宛てたもの。大坂に来ている惟新義弘の息子で、島津家の当主であり、このころは忠恒という名前でした。八月一日付。●手紙四九号「一筆申しあげま

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○今度は大坂の手紙です。七月二十九日付。三奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以に毛利輝元が加わった四人の連名。宛名は佐波広忠です。もう一つ、輝元が単独で書いたもので、佐波広忠、村上元吉、村上景親に宛てた「定め書き」も。●手紙四四号の一番「阿波

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○家康は七月二十九日の段階で、大坂の奉行衆も敵対したことを把握したようです。それは当然「細川成敗」が発令されて、京都府綾部の別所吉治、京都府福知山の小野木公郷ら、丹波の大名衆に出陣命令が出たことに由来するはずです。奉行衆が「この命令」をどの

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○大坂では七月二十三日に伏見城への出陣命令が出たようで、事態が進行しています。しかし関東では、二十七日の段階でも「石田と大谷の謀反が確定したので成敗する」という認識を示しているだけでした。ところが、ついに重要な情報がもたらされたようです。手

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○ここで上杉のことを整理しておきましょう。石田三成と直江兼続が事前に共謀し、「直江が徳川を関西から引き離す。その隙に石田が挙兵する」という定説解釈。その根拠となっている手紙史料は、石田が直江に宛てた「二四号」と「三〇号」の二つです。このうち

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○時間が跳んでしまいますが、先に八月一日の手紙を見ていきます。九州の大分県、中津城にいる黒田如水が書いた手紙です。宛名は吉川広家です。●手紙五一号の一番「天下のことは輝元様が御指図なさいますようにと、奉行衆の申し出により、大坂城へ御移りにな

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○この手紙は、定説解釈において、無視されているものです。内容も定説の理解にまったく合わないし、何よりも、書いた人物がおかしいってわけですね。大坂三奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以に、石田三成が加わった四人の連名。しかし三成は、まだこのころ

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○時間が前後しますけど、七月十四日の手紙に戻りましょう。書いたのは石田三成で、宛名は上杉家の直江兼続です。「二四号」の嘘くさい手紙に同じく、江戸時代の読み物『続武者物語』から採録されたもの。ゆえに嘘くさいシロモノです。●手紙三〇号「六月二十

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○七月十五日に、大坂で島津惟新義弘が書いた手紙です。関東では、まだ何も情報が届いていないころに、大坂で最初の動きがあった模様。宛名は上杉景勝です。●手紙三一号「初めてお便り致します。このたび内府が貴国へ出ばっていったので、輝元、秀家をはじめ

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○会津方面出陣のため、領国の出雲を出発していた吉川広家は、七月十四日の段階で、兵庫県の明石に到着していました。吉川と言えば「毛利の両川」と言われる毛利家の重臣です。当主の輝元とも従兄弟どうしにあたります。ちなみに、大坂屋敷の留守を預かる家老

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○七月二十七日の段階で、関東では「石田三成と大谷吉継の謀反は確定だ。討伐のために西進する」という状況になっていました。その間、大坂では、どんな状況だったのでしょう。時間を七月十二日に巻き戻してみましょう。つまり、大坂奉行の増田長盛が「石田に

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○最初は「噂にすぎない」と思っていたらしい家康も、次第に放置できなくなったうえ、京極の報告を聞いては「自分も上洛せねば」と決断したようです。そのころの手紙が二つあります。まずは家康から新潟の堀秀治宛て。七月二十六日付。●手紙四〇号「そちらの

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○大坂からの一報は、家康の出陣前に届いていたと思われるのに、家康は当初の予定どおりに動き続けていたようです。その間も各大名は、続々と栃木に向かって進軍を続けていました。すると家康は、集結してきた大名たちと、話し合う場を設定したらしいのです。

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○関西からの報告を受けた徳川家は、この事態をどう見ていたのでしょう。そのころの手紙が二つあります。まずは秀忠の書いた滝川雄利宛て。七月二十二日付。●手紙三六号「ご思慮あってのご報告に歓喜します。会津方面出陣のことは、昨日二十一日に内府が出馬

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○大坂の状況はおいといて、まずは関東のほうから見ていきます。現代人は「関ヶ原の合戦の基本的な展開」を知っているわけですが、だとしても、あえて「まだ何も知らない」という前提で考えてみましょうよ。当時は電話もありませんし、テレビのニュース速報も

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○七月十二日に増田長盛が送った一報は、「石田と大谷に謀反の噂」というものでした。本文が短すぎて、それ以上は何もわかりません。そのあたりの事情を記しているのが次の手紙です。毛利家の大坂留守居衆、家老の宍戸元次ら三名が連名で、徳川家の永井直勝、

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○時系列が跳んでしまいますが、先に八月三日付の「手紙五四号」を見ておきましょう。仙台の伊達政宗が書いたもの。宛名は井伊直政と村越直吉の連名です。●手紙五四号「上方のこと、たとえどんな程度であれ、およそこれぐらいのことなら、若輩ながら見通して

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○江戸へ帰った家康は、会津方面へ行くために動き出しました。そのあたりの状況を記した手紙です。細川忠興が、江戸にいる息子へ宛てた返事。「大坂の陣」の史料整理ではメインに使った『細川家史料』が出典です。七月九日付。●細川忠興の手紙一号「手紙を読

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