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2015年11月10日17:42

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関ヶ原史料「そのころの上杉」大坂決起

○ここで上杉のことを整理しておきましょう。石田三成と直江兼続が事前に共謀し、「直江が徳川を関西から引き離す。その隙に石田が挙兵する」という定説解釈。その根拠となっている手紙史料は、石田が直江に宛てた「二四号」と「三〇号」の二つです。このうち「三〇号」は、とにかくひどい内容で、偽書でしかないシロモノでしたが、「二四号」については「偽書だと思う」としか書きませんでした。しかし「二四号」には「輝元、秀家、そのほか無二の味方あり。ご安心を」の文章があったわけですね。そもそも、石田三成に人望があるとかないとかに関係なく、「石田では豊臣家の軍事権を行使できない」というのが、封建君主制の基本的なシステムです。そこをクリアするために石田の取った手段が、手紙史料から浮かんできたわけですよ。安国寺を味方につけることで「毛利を抱き込む」アクロバティックな「計略」を実行し、「家康のいない隙」に「家康の持つ軍事権を輝元に移す」ことに成功しています。だとすれば、「二四号」を書いた六月下旬の段階で、「毛利は味方ですよ」と「嘘を書いている」ことになるじゃないですか。仮に石田が、自分の計画に自信を持っていて、「毛利を味方にできる」と確信していたとしても、この時点で「毛利も宇喜多も味方ですよ」という嘘を上杉に話したら、徳川の出陣をじっと待っている上杉景勝ではないと思います。なぜならば、上杉が単独で徳川の指揮権を拒絶するから「豊臣家への謀反だ」という話になるのであって、五大老の毛利と宇喜多が「最初から上杉の味方」であれば、話は簡単なこと。「上杉家の謀反を言う家康が間違っている。家康が豊臣家の全権代行であることを拒否する」と上杉が宣言し、毛利と宇喜多が同調すれば、政治クーデターの成立じゃないですか。この場合は「豊臣家の全権代行に誰がなるか」の争いで、「豊臣家の天下を奪う」ことにはなりませんので、豊臣家は慎重になり、中立的に調停役を務めようとするでしょうね。たとえ話し合いがつかなくて、「上杉、毛利、宇喜多」連合軍と、「徳川、前田」同盟軍との大戦争に発展するとしても、座して「徳川の出陣を待つ」よりもマシなはず。きっと景勝は、なんらかの政治的行動を起こしたでしょう。その結果、実は毛利も宇喜多も何も知らなくて、上杉の一人相撲だったことになって、墓穴を掘ったでしょうね。それほど危険な嘘を「石田は平気で書いている」にもかかわらず、この嘘は「現実の事態」には何も影響を与えていないのですから、結局は、あとの時代になって書かれた偽書だってことです。

○石田と直江の事前共謀を示す史料は、上杉家史の中にもありません。唯一の存在となるのが、「三一号」島津の手紙に書いてある文章「貴家の家老も、あなた様も、同意しているとのことを伺いました」です。原文だと「貴老御手前同意可然候由承候」で、「何々のよしを承りました」ですから、伝聞でしかないことが明白です。石田三成の計画としては「細川討伐の戦争から、家康を巻き込んだ全面戦争にする」わけですし、今現在「徳川の矢面に立たされているのは上杉家」です。ここから一つ推測できるのは、「回りくどいことをやってでも、家康から軍事権を奪い、輝元に委ね、その輝元を味方につけて、最終的には徳川を倒す全面戦争に持っていく」石田の計画を、直江兼続は事前に知っている可能性なんです。だとしても、「石田と直江が話し合った本当の計画」を、石田がペラペラと喋るわけもないじゃないですか。石田は知らん顔で、あくまで「細川成敗に上杉が同意だ」と言ったのみ。なにしろ「まだ輝元は何も知らない」のに、「輝元様もご存じだよ」と嘘をついた石田ですからね。このくらいの嘘はつくでしょうね。そして、話を聞いた島津も、奉行衆も、さらには輝元も秀家も、まさか「石田と直江が、もっと恐ろしいことを計画している」とは露とも思わずに、石田の主張に同意して、七月十七日に「細川成敗の命令」を出してしまったというわけです。この段階では「豊臣家の内部統制の問題」にすぎないとも言えるのですが、さらに二十三日になると、今度は「伏見城攻撃の出陣命令」が出た模様。こうなってしまうと「徳川との対立」が現実化してきます。この間に何があったのかを直接に記す手紙史料はありませんが、もっとあとの手紙から、少しは推測が可能なので、それはそのときに書きます。では、この時期に書いた直江兼続の手紙が、上杉家史に掲載されていましたので、それを見ておきましょうか。

●直江兼続七月十四日の手紙「強く申し伝える。白石の処置で、御検使が向かうので、あなた方も手勢を出し、白石まで送り届けて、一両日中はそちらに逗留すること。そちらへ政宗が出てきた場合は即座に対処せよ。みんな油断なきように」

○福島市近辺の武将たちに送られたものだそうです。宮城県の白石は、仙台市と福島市のあいだに位置していて、伊達領と接している上杉領です。よって伊達政宗が、白石に手出しをしてくる可能性があるわけですね。ちなみに、同じ者たちに宛てた七月二十七日付の手紙もあって、それには「白石に政宗が在陣しているそうだ」と書いてあります。ということは、「白石の防衛に油断するなよ」と言っておいたのに、あっという間に白石を取られちゃったということでしょうか。定説ではその理解で、この時期に「東北地方では戦争が始まっている」という解釈です。でも、前に書いた「五四号」政宗の八月三日付には、「上杉と戦っている」ようすなど、一言もなかったわけですね。つまりこれも同様で、石田三成が「軍事権を持たないから勝手な命令はできない」ように、政宗は「家康の軍事命令もないのに勝手な攻撃はできない」のです。偽書は、政宗の白石在陣を書く「直江の二十七日付」のほう。軍事指揮権を無視する手紙は偽書なんですよ。このころの上杉家は、白石、福島、白河など、境界地域の防備を固めていただけでしょう。
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